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pISSN : 1226-3605 / eISSN : 2733-8908

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2009, Vol., No.42

  • 1.

    『捷解新語』卷十의 文面解讀(Ⅱ)

    임창규 | 2009, (42) | pp.5~24 | number of Cited : 3
    Abstract PDF
     本稿は従来の研究では研究対象から排除されてきた候文体書簡文である『捷解新語』巻十(五帳から八帳まで)について検討したものである。 司譯院における倭學書の白眉とも言うべき『捷解新語』の資料的重要さは言を俟たない。しかし、従来の研究では巻十の場合、候文体書簡文であることから、研究対象から排除されてきたのである。先行研究があるとしても李太永(1997)が唯一であるが、李太永(1997)においては原文である日本語文については考慮の外に置き、改修本の対訳のハングルだけに注目し、現代韓国語を解釈しており、不自然な表現などが少なくない。そこで本稿では、『捷解新語』が書かれたほぼ同時代の文献、すなわち『日葡辞書』『日本大文典』の他、多数の資料を参考にし、日本文及び、文の前後の状況までを考慮の対象とし、巻十の文面を繊細で且つ緻密に解読を試みたものである。 検討の結果であるが、『捷解新語』を解読するに当たって日․韓どちらかの一方だけの言語の立場から解読した場合、誤謬を犯しやすいことを確認することができた。さらに、本稿においてはそうした先行研究の誤謬を修正し、且つ最も望ましい巻十の解読の方向性を提示しようとしたのである。すなわち、『捷解新語』の底本である原刊本の日本語を軸にし、まず、原文の日本語を現代日本語に解読し、さらに改修本と重刊本の韓国語を考慮の対象にし、現代韓国語に解釈すべきであると論じた。また、日本語文と対訳の韓国語文の構造の違いが有る場合、特に日本文の直訳が韓国語として文法的ではない場合においてはまず、韓国語の文法的な表現に意訳して解釈するのが妥当であると考える。さらに改修本の編纂過程において生じた誤謬または不自然な表現は、原刊本の日本語の表現に基づき、現代韓国語に解釈すべきものであると論じた。
  • 2.

    話題導入ストラテジーの韓日対照研究

    정영미 | 2009, (42) | pp.25~42 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
    本稿は、条件統制をした上で収集した韓国語と日本語の各言語を母語とする女子大学生の友人間の会話を分析対象とし、話題導入におけるストラテジーの運用について考察したものである。分析において、会話参加者が話題を導入するとき用いるストラテジーを「話題導入ストラテジー」と呼び、それを「メタ表現」、「認識の変化を示す表現」、「談話標識」、「注目の呼びかけ表現」の4種類に分類した。分析の結果、韓国語の会話データで合計250話題が抽出でき、日本語の会話データでは合計392話題が抽出できた。「話題導入ストラテジー」の運用を見ると、韓国語では250話題中、「話題導入ストラテジー」を使用していないものが162話題で、全体の約65%を示していることが明らかになった。その一方、日本語では392話題中、237話題(全体の60%)において「話題導入ストラテジー」が使用されているという韓国語とは正反対の結果が出た。そこで、「話題導入ストラテジー」の使用は話題転換における唐突さを軽減することになると捉え、話題の導入においては日本語の会話が韓国語の会話よりポライトであると解釈した。4種類の「話題導入ストラテジー」の中では韓日共に「談話標識」のストラテジーが最も多く使われていた。しかし、その表現形式における詳細は異なっている。韓国語では「談話標識」の中でも接続表現が70%近くを占めているが、日本語では約20%を占めている。接続表現は新しく導入される話題と先行する話題とを何らかの形で関連付ける働きをするものである。そこで、韓国語会話では会話参加者が関連性の格率(Maxim)を守ろうとする傾向が強いと解釈した。
  • 3.

    近代日本の「国語」教育と漢字政策

    Hyung, Jin-I | 2009, (42) | pp.43~58 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
    日本における近代教育は、明治4年文部省設置と同5年学制の発布によって始まる。明治維新と共に近代化が進められるなか、庶民皆学の理念のもと、近代教育システムが整えていくのである。そこに漢字は学習に負担が多いという理由で、問題として浮上し、漢字廃止論が台頭する。それに対抗して漢字節減論も持ち上がる。このようにして始まった漢字に対する問題提起は、「国民」言語としての「国語」構築の際にも、「国語」教育においても続く。  日本の「国語」教育と漢字政策にとって、もっとも注目すべきは、1900年の第三次小学校令と、1946年のいわゆる「国語民主化」である。第三次小学校令は「国民」言語としての「国語」が、構築されつつあった時期に出された学校令として、これによって「国語科」がはじめて登場し、読み、書き、聞き、話しの設定など、今日の「国語科」の基盤となった。そして小学校で教える漢字数を1200字に制限する具体案が、第三次小学校令において示された。  そして1946年のいわゆる「国語民主化」は、「国語」構築以来、もっともながく論争が続いた表記法問題に一応の結論を出した出来事で、表音かなづかいによる「現代かなづかい」と「当用漢字表」による漢字制限である。これが「国語民主化」と呼ばれる所以は、「現代かなづかい」と「当用漢字表」によってようやく「すべての人が平等に学べる平易な国語」が実現されたと思われるためであろう。つまり近代教育の始まりから、漢字はたえず「問題」として認識され、廃止論と制限論が繰り広げられたが、1850字に制限することで、漢字問題は一段落し、「国語民主化」と位置づけられたのである。そしてその実体はどうであれ、このいわゆる「国語民主化」を境に「国語」教育も漢字政策も、戦前のような大きな論争がないのも事実であろう。
  • 4.

    平安時代の女性たちの自己主張*  ─『源氏物語』の「女」という語を中心に─ 

    김옥경 | 2009, (42) | pp.59~76 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    本稿は『源氏物語』における「女」という語を一つの手がかりにして、女性への考え方について検討を施したものである。『源氏物語』はそれ以前の文芸作品には例を見ないほど、女性に関する見解を多く残している。中でも、光源氏が本格的に物語の主人公として活躍する帚木巻では、女性に関する考え方が集約されている。それは結果的に理想に叶えられる女性は実在しないということで終わってしまうが、話が男性の観点に立って進められたために、女性自身の立場や悩みなどは顧みられていない観念的なものになっている。  それに比べて女性の場合は、結婚は自己の生活問題と密接に関わっていたので、より内面的で切実な問題になっている。ただそれも男の口を通されると、後見者による女性の生活の安定に重点が置かれることになる。とりわけそれは皇族女性の場合に目立って表れていたことを「女」という語から確認することができた。  ところで、女性による「女」というすべての例が、母親の立場で娘を思う心から発せられ、結婚問題にかかわっている点は注目される。勿論それは母親に限らず、父親にとっても同様である。ただ、女性の立場で述べられる「女」に対する考えは、母親となる女性の体験や思考に基づかれたもので、娘の結婚による生活の安定ばかりではなく、女性の生き方の問題にも繋がっている。とりわけ、紫上の「女」としての嘆きには、社会のあらゆる面において弱者の立場で不利な条件を生きながらも、より人間的な存在として自己の意味を探ろうとする女性の深い悩みを思わせるものがある。
  • 5.

    『紫式部日記』における対『枕草子』意識 ──藤原斉信関連記事をめぐって──

    KIM Hyosook | 2009, (42) | pp.77~98 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    『紫式部日記』に『枕草子』に対する対抗意識が顕著であるということは、従来よく言われることであった。それは、『紫式部日記』の消息的部分に清少納言に対する辛辣な批判が述べられていることがもっとも大きな原因であろう。本稿では、その清少納言批判に至るまでの消息的部分が連動して書き進められていることに注目し、その中で後宮サロンを具体的に批評する人物として藤原斉信が登場している意味、さらには『紫式部日記』全体における斉信の描かれ方を『枕草子』と関連づけながら検討している。 『枕草子』には藤原斉信との交流が描かれ、清少納言は彼に対して最上の賛美を呈するのだが、彼に贈られた称賛は、彼女自身の才知を引き立て、さらには中宮定子のサロンをさらに輝かせることに繋がっていた。そして『紫式部日記』にもやはり藤原斉信のことが多く描かれているのだが、それは彼が中宮彰子「宮の大夫」であったという職掌に加え、『枕草子』を意識してのものであったと思われる。それは、例えば漢籍の知識に関わる記事によってさらに鮮やかに浮き上がる。紫式部は清少納言批判文において清少納言の漢学の教養を見せびらかすような態度を非難しているが、実は紫式部も清少納言のように自身の漢学の教養に対して異常なまでの自負を持っていた。そして、『枕草子』には藤原斉信との漢詩の遣り取りが書かれているが、『紫式部日記』においてもやはり斉信との漢詩の応酬が描かれており、これもやはり対『枕草子』意識によるものではないかと思うのである。 紫式部は、かつて清少納言との交流を通して定子サロンの栄華を世に伝えた役割をしていた藤原斉信を、今度は『紫式部日記』において彰子サロンの一員として描き直すことによって、定子サロンを否定し彰子サロンの優越性を世に知らしめたのではなかろうか。
  • 6.

    일본 근대문학에 나타난 에도시대의 전통 고찰 -나쓰메 소세키의 『그 후』에 묘사된 참살과 할복-

    Kwon HyukGun | 김태관 | 차민경 | 2009, (42) | pp.99~116 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    Following is the summary of what the writer has analyzed. First, the fight between Hogiri, and the Nagaitoku brothers was not「Single Combat」kept traditionally among Japanese warriors. Nagaitogu could beat Hogiri through 「One on Two fight」, which was against the traditional standards of behavior of Warriors. Second, the Nagaitoku brothers, who decapitated Hogiri, had to finish their lives by self-disembowelment, but could have a narrow escape from it. That was because a power, Takagi, who was a distant relative on the maternal side , persuaded the lord of a manor and the senior statesmen. Third, in the late Edo era, warriors couldn't keep their honorable tradition in the course of a change to Meiji era. They deserted themselves and resorted to an expedient to survive. That is, the tradition of warriors only remained in a bluff in the Meiji era. It is said that the warriors' bluff is well and openly described in Nastume Soseki's works.
  • 7.

    포스트 프롤레타리아 여성 - 백신애의 「적빈」과 이북명의 「벌거숭이 부락(裸の部落)」을 통해 본 ‘능부(能婦)’의 재탄생-

    명혜영 | 2009, (42) | pp.117~140 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    1920年代の半ばから1930年半ばの約10年間においての韓日文壇は、プロレタリア作品が主流であった。ところが、日本政府の相次ぐ検閲と弾圧により、プロ作家たちは’転向’を余儀なくされた。当然の如く、文学のテーマもまた世界恐慌といった時代状況と相まって’闘争’から’生活’へと移っていった。  ペク・シンエの「赤貧」とイ・ブクミョンの「裸の部落」は、こうした厳しい状況の中で生まれた。当然の如く、文学者たちの目に移ったのは「朝鮮人民たちの生活状況」であった。するとそこには、行き場を失った男性たちの姿と、彼等に代わって頑張っている女性たちの姿があった。二つの作品には、生活力を失った家長の代わりに、家計を支えている女性の姿が描かれている。彼女たちは家族のためによく働き、夫や息子を内助する。それは他でもない、朝鮮時代から引き続いている’能婦’の姿であったのである。  二人のプロ作家は、「闘争するプロ女性」から生活する伝統的女性であり、脱政治的な「能婦」を再誕生させているのである。
  • 8.

    ‘족보’와 ‘창씨개명’ -김달수의 「族譜」와 가지야마 도시유키의 「族譜」를 중심으로-

    Jehong Park | Kim,Soon-Jeon | 2009, (42) | pp.141~164 | number of Cited : 6
    Abstract PDF
    本稿は、在日朝鮮作家である金逹寿の小説「族譜」と、朝鮮で生まれて幼年時代を過ごした日本作家である梶山季之の小説「族譜」の間に、どんな差が存在するのか、また日帝強占期末日帝の‘創氏改名’がどういう形で展開されているかを考察したものである。. 1940年日帝は、朝鮮人をすっかり日本人で同化させようと‘創氏改名’を強要した。このような時代相を金逹寿は22歳の青年で故郷の昌原で、梶山は13歳の小学校5年生で京城で目撃しながら経験したことを小説「族譜」で形象化した。この二つの作品の共通的な素材である‘族譜’と‘創氏改名’という対立的な主題を通じて、植民地朝鮮の惨澹たる現実を表現したという事実だけでも、高く評価すべきだといえよう。しかし、二つの作品の大した違いは、金逹寿の「族譜」は政治的な背景を削除したまま可能な率直でリアルに描き出しているという点である。主人公金敬泰の目に映った祖国の慘憺たる現実の前に、‘創氏改名’という渦巻きに朝鮮の象徴である‘族譜’が消えゆくようになる惜しさが、作品の中に内在していると言える。 一方、梶山の「族譜」は自分の直接体験ではない新聞や伝言を参考して書いた作品なので、政治的な傾向が強く作用して現われているといえよう。主人公谷の消極的な行動に対する責任を国家の代わりをして個人が償う場面で、日本的な感じがする。特に、この作品は結果をもう決めておいて書いた作品なので、金逹寿の「族譜」とちがって終わりに‘族譜’を京城帝国大学に寄贈することで仕上げる場面は、一番政治的な表現の絶頂を見せてくれている。 特に、両作家の共通的な‘族譜’という題名に決めたところには、‘創氏改名’に対する反対の概念で把握している。一番、朝鮮的な伝統である‘族譜’と日本人で同化の象徴である創氏は、ついに、抵抗しても創氏改名するしかない現実認識で始まる。にもかかわらず、在日朝鮮作家と日本人作家が、この族譜の問題を作品で形象化したことは、昨今の日本政府の‘創氏改名’に対する誤った主張を正しく直すようにいい機会だと考えられる。
  • 9.

    『或る女のグリンプス』から『或る女』へ

    Jung, Ug-Sung | 2009, (42) | pp.165~182 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    本稿で、『或る女のグリンプス』の「完結」ㆍ「中絶」という文献的問題を踏まえつつ、『或る女のグリンプス』の根源的な主題について考察した。特に、西垣勤の論と蒲生芳郞の論との両氏の説に注目しながら、それぞれの論点の是非にについて論じながら、新たに『或る女のグリンプス』の読みを提示したのである。  まず、蒲生芳郞は、『グリンプス』における幾つかの要素―破れた懐中鏡ㆍ田鶴子のヒステリー症ㆍ下腹部の痛みㆍ凶夢ㆍ「青白い顔」の少女との出会いの場面ㆍ愛子と貞世に対する差別待遇ㆍ倉地の犯罪行爲の伏線等―を取り上げ、これらの場面が『或る女』の後編の破滅を暗示するものと考えられるのは、作者の意図した描写に他ならない。そのように考えた場合、『グリンプス』は完結された作品ではなく、『グリンプス』の結末が物語っているように、その先には主人公の破滅を描いた『或る女』の後編とつながるのは当然のことである。その意味でも『或る女』の前ㆍ後編は屈折されたモチーフで描かれているのではなく、前ㆍ後編の首尾一貫した「トータル」な読みを必要とすると主張した。しかし、だからといって、必ずしも後編の破滅の場面を描かなければならないということではないのではなかろうか。つまり、これらの破滅的な予知の描写は、蒲生氏が言う後編の破滅を必要とする伏線的なものではなく、『グリンプス』において、ただ予知的な機能のみを意図して描かれたのではなかったかと本稿では、論じられているのである。  それから、『グリンプス』の段階では、西垣勤がいうように、「一先ずの開放感を得て終わった」ではやや無理があるみるのである。どちらかというと、『グリンプス』は開放感を得たのではなく、本論で考察した「いまはしい」という言葉が象徴するように、『グリンプス』執筆当時に抱えていた有島自身の精神的苦悩―キリスト教に対する苦悩―を完全に振り切ったとは言えないと思うことを本稿では、主張されているのである。
  • 10.

    江戸後期の浮世絵にみる視覚イデオロギー -広重の名所江戸百景-

    김애경 | 2009, (42) | pp.183~206 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    江戸後期に描かれた「名所絵」である広重の『江戸百』は、単なる視覚商品ではなく、情報伝達媒体の役割も果たした全120図の連作だ。この連作は西欧のジャポニスム形成の要因になったことで日本が誇る芸術品であり、江戸後期の風景の中に庶民の暮らしぶりを敍情的に描写したことで一層高く評価されている。  しかし『江戸百』の製作背景を踏まえてみると、『江戸百』が描かれた時期は元号までも嘉永から安政へ改められるほど対内外的に混乱した時期だった。江戸百』の敍情的モチーフの基底には絵には見えない正反対の浮世(現世)が存在していたことがわかる。   江戸後期の幕府は都市繁栄と伝統を象徴する敍情的モチーフが描かれた『江戸百』の「定型」モチーフを通じ、安定感と国民統合を求めた蓋然性がある。  広重は約2年半かけ、江戸後期の風景を非常に安定した社会像で描写した数多くの作品を残している。版元の意図が反映されたのか、幕府の意図が反映されたのか、断定することはできないが『江戸百』は江戸後期の時代が期待していた支配イデオロギーを内在している視覚媒体である。  『江戸百』の画一的構成、構図、色と象徴される敍情的モチーフの諸イメージは、単純に「商業的」な、あるいは「日本的」「伝統性」といわれる文化的営為である以前に、それより高い秩序に属する、当時のイデオロギー性の象徴にほかならない。
  • 11.

    일본 사가현의 임란포로에 관한 연구

    NO, Sung Hwan | 2009, (42) | pp.207~230 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
    本稿は壬亂と丁酉の倭亂によって日本軍に捕虜となり、海を渡って佐賀県に定着した非陶工の人々を中心に考察したことである。彼らは主に唐津と佐賀そして武雄という地域に多く住んでいた。唐津の場合、唐人町という所で木棉と香を製造する朝鮮人たちが多く住んでおり、また高德寺では捕虜の刷還するために朝鮮禮曹から送った諭告文が保管されていたことが分った。そして佐賀市では 知識階層の朝鮮捕虜も多かった。その代表的な人物としては林榮久, 李九山の一族などが挙げられる。林榮久は藩主から信任を受けた醫師であった。彼は藩主が死ぬと殉死したいと思ったが達成できず、自分の子供にそれを願った。その結果、彼の次男はそれを實踐した。自分の仕えていた主君が死んだ際、殉死する朝鮮人は、ただ林氏一族だけではない。鍋島勝茂が死ぬと、その家臣たちが次から次へ殉死した。そうすると今度はその家臣の家来が殉死することが起きた。大野吉兵衛の家来であった朝鮮人淨眞と太左衛門の夫婦の自殺は、まさにそれに属する殉死はであった。その一方、佐賀の産業に大きく貢献した朝鮮人捕虜もいた。製藥と更紗技術を開發した李九山をはじめ無名の行李工, 飴工, 織工たちがそれである。そのほか槙忠左衛門という少年捕虜もいた。多久には養父母に殺された朝鮮少年捕虜の話しがあった。この話しは才能のある少年捕虜だったらその才能を高く評価し自分の養子にすることもあったあるが、万が一その才能が自分たちに威脅になると、早速除去してしまう人間の冷酷さがある。このように佐賀県の朝鮮捕虜たちは社會的に安定された生活をするためには武士になった捕虜は、切腹殉死するほど主君への忠と義を守り、一般人たちは獨特の專門的な技術と特徵を持っていなければならなかった。これは日本での朝鮮捕虜の社會的な地位がいかに不安定であったかをよく示されていると見なされる。
  • 12.

    일본의 삼림자원 활용전략에 관한 연구

    유기준 | Jee,Jin-Ho | 2009, (42) | pp.231~248 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    日本での森林に対する認識は、単に木材とそれに関わる製品を生産する資源の供給源としての役割だけでなく、森林体験型観光、森林体験教育プログラム、森林セラピープログラムなど、環境メッセージ性のある新しいプログラムが営まれる場所として開発されている。 このような政策は森林環境教育という新しい教育活動を通じて、森林に対する包括的で総合的な認識のきっかけをつくり、森林を健康増進と疾病の治癒に生かして、国民の健康増進福祉政策の実現空間としての活用と繋がる。 本稿の研究地域での森林活用戦略は、森林体験型総合教育プログラムと森林セラピープログラムをもって運営されているが、個人の性格と被体験者の特性を考慮し、多様なプログラムを営んでいる。また、森林体験の利用を促進するために、地域に関する多くの情報の発信戦略をとっており、市町村と関連組合、民間、NPOなどが連繋する推進体制の構築と、短·中·長期計画を立てるなど、体系的な努力を傾けている。
  • 13.

    다다노 마쿠즈의 『獨考』에 나타난 서양지식

    TaiHong Lim | 2009, (42) | pp.249~268 | number of Cited : 2
    Abstract PDF
    本稿は、只野真葛(1763-1825)の『独考(ひとりかんがえ)』(1817)の中に含まれている西洋知識に関して探ってみるものである。『独考』に見られる西洋に関する情報は、分量的には多くはないが、政治や経済の問題、社会の慣習や女性の問題など多方面にわたっている。幾つかに分けて、それを整理すれば次のようである。 第一、ロシアに関する内容が多い。 真葛の思想は、国学と蘭学の二つの交錯する地点にあると言われるが、本稿で考察した真葛の「蘭学」とは、厳密に言えば広い意味での「蘭学」である。彼女が『独考』の中で提示している「西洋の国」は、多くの場合、オランダではなくロシアであるからである。 第二、自分の主張を裏付けるような内容が中心である。 もともと『独考』という書物の性格がそうであるが、その本に含まれている西洋の知識は、西洋の「紹介」ではない。その情報の分量も少なく、全体としての体系性も欠如している。真葛自信が主張したかった思想の根拠として取り上げられている場合がほとんどである。しかし一応提示された内容は、その分、真葛の思想においてはたいへん重要な基礎になっていることは確かである。 第三、『赤蝦夷風説考』の内容とは重なっていない。 真葛の父親の著作である『赤蝦夷風説考』の内容は、ロシアに対する外交戦略的な性格が強い。彼によれば、「赤蝦夷」の人々が北海道や日本に人や船を送っているのは、通商の目的による可能性が高い。そこで日本は、この機会を利用し北海道を日本の直轄地として編入し、開発して行くべきであると主張していた。 真葛の西洋の知識、すなわちロシアに対する紹介はこうした『赤蝦夷風説考』の内容とは多少異なる。彼女は多くの場合、ロシア社会や西洋の「近代性」に注目していた。先進の西洋社会に、日本の制度や社会文化を対比させ、日本国を変革したいという立場を取っている。恐らくこうした「変革」態度は、19世紀の前半、大鹽中齋(1793-1837)、生田萬(1801-1837)、會澤正志齋(1781-1863)、平田篤胤(1776-1843)等が共通に有していた時代的な風潮からの影響であろう。しかしながら真葛が注目していた「社会」は、中国や日本の古代社会ではなく、「西洋」の社会であるということが異なる。福澤諭吉(1835-1901)が生まれたのは、彼女が死んでから10年も経ってからの年であったという事実からも、彼女の思想の先進性が読み取れる。
  • 14.

    일본사회에서의 한류열풍으로 인한 한국인과 재일코리안에 대한 인식변화 -연령별 분석

    황혜경 | 2009, (42) | pp.269~292 | number of Cited : 12
    Abstract PDF
    本稿は韓流による日本人の、韓国・韓国人・在日コリアンに対する認識の変化を年齢別にわけて関連性をみた。さらに、それを韓流以前と韓流以後に分けて、その差異を考察したものである。  その結果、韓国と韓流の関心度においては、50-60代以上が一番関心が多く、次は30-40代、10-20代順であった。また、韓国への関心視点をみると、年齢別に違う結果が出た。そして、年齢と韓国人の認識・韓国人の親密感・韓国人と仲良くするか・在日コリアンの認識・在日コリアンの親密感との関係を見た結果、韓流以前には韓国人の認識・韓国人の親密感・在日コリアンの親密感においては関連みられ、韓国人と仲良くするか・在日コリアンの認識においては関連がみられなかった。また、韓流以後には上記の5項目において全部関連がみられた。その結果、韓流以前には他の年齢と比べて30-40代が目立つほど肯定的に出た。一方、韓流以後には30-40代より10-20代と50-60代の方がさらに変化された。特に、50-60代以上の場合、興味がなかった人たちが上記の5項目において、急に肯定的に変化することが数字からとられた。  また、年齢と韓・日関係・韓国歴史の関心度・日本歴史教科書歪曲問題・独島所有権問題の日本立場において関連性を見た結果、韓流以前には韓日関係・日本歴史教科書歪曲問題・独島所有権問題には関連性がみられ、30-40代の場合、他の年齢より韓国の立場で肯定的にみられた。しかし、韓国歴史の関心度においては関連がみられなく、年齢別に差はみられなかった。一方、韓流以後をみると、韓国歴史の関心度・独島所有権問題の日本立場においては関連みられ、韓国歴史は50-60代が興味深く、独島所有権問題においては、他の項目と違い、韓流以前と韓流以後が変わらず50-60代以上の方が頑固であって、韓流の影響を全然受けてないことがわかった。そして、韓・日関係・日本歴史教科書歪曲問題においては、年齢別に関連がみられなく、全年齢においての差はみられなかった。  最後に年齢と韓国料理摂取度・キムチ摂取度との関連を見た結果、韓流以前には関連がみられ、30-40代が韓国料理をよく摂取することになり、キムチにおいては関連がみられなかった。韓流以後にも韓国料理においては関連がみられ、同じく30-40代がよく摂取され、またキムチの場合は関連がみられなく、韓流以前と韓流以後の差がみられなかった。  以上のような結果から年齢別の特徴を考えてみると、日本社会の韓流による韓国・韓国人・在日コリアンにおいて、日本人の10-20代の場合は無関心から関心に、30-40代は肯定的イメージからさらに関心に、50-60代は無関心あるいは内在されている否定的イメージから急な関心に変化したことが今回の調査の数字からとられた。
  • 15.

    『隠州視聴合紀』の名所和歌

    ITO, Masahiko | 2009, (42) | pp.293~314 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
     1667年(寛文7)に出雲松江藩士斎藤豊宣が著したとされる『隠州視聴合紀』は獨島/竹島領有問題が議論される際に言及されることが多いが、同書は果たして獨島/竹島の領有権を明らかにすることを目的として書かれたものなのであろうか。決してそうではあるまい。『隠州視聴合紀』の著者とされる斎藤豊宣は出雲松江藩の藩士で1667年(寛文7)に藩主松平綱隆により隠岐郡代役を命じられている。斎藤は隠岐へ渡って任地をくまなく巡視しながら古老から伝説や遺聞を集め、隠岐の地理、産物等について書き留めたのであり、それが『隠州視聴合紀』である。言うなれば任地に関して藩主へ報告するための報告書である。このような事情を勘案したとき、異質に見えるのが隠岐の風土誌とは直接的に関係のないとも言える巻4の最後に収められている「名所和歌」である。  本稿では『隠州視聴合紀』巻4に見える上述の「名所和歌」のもつ意味に対する考察を行なった。斎藤豊宣は『隠州視聴合紀』の「名所和歌」を通じて隠岐の歌枕を紹介だけでなく1首目と2首目の和歌を通じてかつて隠岐に配流された後鳥羽院に対して新たに赴任した「新島守」としての自身の立場を重ね合わせて共感を示した。そして3首目、6首目、11首目の3首の和歌を通じ、19年という長い歳月を隠岐で過ごし、苅田郷の配所で寂しく世を去った後鳥羽院への追慕と鎮魂の念を示した。また、後鳥羽院のみならず隠岐は古くから流刑の地であり、無数の人々が配流されており、隠岐郡代として流人を監督する位置にあった斎藤は4首目と5首目の和歌を収録してこれらの家郷を離れて隠岐に流されてきた流人たちの心に思いを致すとともに鎮魂し、同時に朝幕関係の桎梏に苦しんだ宗尊親王への関心もしめしている。そしてさらに世の中に善政が布かれていることを称える意味も込めて島後都万の高田明神に奉納された百首和歌からの国見的な詞章を想起させる7首目から10首目までの4つの和歌を名所和歌に収録することで斎藤豊宣は自身の統治の安寧と神明の加護を祈り、寿いだのであった。以上のようなことが斎藤豊宣が『隱州視聽合紀』に「名所和歌」を収録した理由であると推察されるのである。