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pISSN : 1226-3605 / eISSN : 2733-8908

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2010, Vol., No.46

  • 1.

    鹽干 朴於屯과 獨島

    권오엽 | 2010, (46) | pp.11~46 | number of Cited : 3
    Abstract PDF
    朴於屯は安龍福と共に日本に拉致されて送還されたにもかかわらず、全ての記録は安龍福が中心となっており朴於屯に関する記録は少ない。ところで最近、朴於屯の戸籍が発見され、その身分の一部が明らかになった。彼は1661年に良人朴己の子として生まれ、奴婢千時今と結婚した。彼が兵営塩干の良海尺であったことを勘案すると、水軍の櫓軍であった安龍福のように水軍の経歴を持ち、それを生かして鬱陵島へ渡海して拉致され、1696年にも再度渡海したと思われる。朴於屯に関する記録は朝鮮よりは日本に多い。彼が供述したという内容と「号牌」の来録などである。1690年に蔚山で発行したという「号牌」は戸籍の内容と同じで、青良 目島里に居住する30歳の人物で1661年生まれであった。1690年に30歳であることから1693年には33歳であったはずだが『竹島考』での供述では34歳になっている。計算方法の差であろう。朴於屯は拉致された1693年には安龍福と同行したが、訴訟の目的で渡海した1696年の一行には含まれていなかった。鬱陵島まで渡海していながら、5人の僧侶を含む一行に入っていないということは、当時の朝鮮人が多様な形で渡海していたことを意味する。また朴於屯の意思であるか、そうでなければ除外された結果であろう。朴於屯と安龍福は船頭と下人の関係と説明されることもあるが、 朴於屯が安龍福に守護されていたことは事実である。小屋番として勤めていた朴於屯が拉致される危機に見舞われた時、それを阻止しようとした安龍福も共に拉致されたことからそれが分かる。その朴於屯が鳥取行きの一行に含まれていないのは安龍福が除外した可能性と、朴於屯が参加を断った可能性が考えられる。前者ならばそれなりのわけがあったであろう。拉致された彼が日本の審問に反論する安龍福の主張に同調することより、日本の期待に沿って振舞ったり陳述するなどして日本に正統性を与えていたならば、除外された可能性もある。また彼が目島里に移住する前に居住した大垈里が山村であって、海尺になったとしても海の仕事に慣れていないので除外した可能性もある。彼が鬱陵島で小屋番として勤めていたのもその故だったかも知れない。つまり漁労に向いていないので小屋で勤めながら後始末などをしたのであろう。尤も「塩干」であった彼は漁獲物に対し塩漬け作業などをするために渡海の一行に参加していたかも知れない。朴於屯が水軍の経歴者で、隠岐住民と親しい関係であったことを想起するなら、猟のみを目的にした渡海ではなかった可能性もある。安龍福一行が鬱陵島に約2か月も逗留してから鳥取に赴いたが、その間の行跡が不明である。僧侶を含む一行が何をしながら過ごしていたかも疑問として残る。朴於屯の場合は「塩干」の役割を果たしていたのであろう。このような点から東海を拠点にする国際的な海上流通業の存在を想定し得る。
  • 2.

    독도와 한일관계: 일본의 독도인식을 중심으로

    Kwak, Jin O | 2010, (46) | pp.47~64 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
    본 연구는 일본의 독도인식과 한일관계를 통해서 본 일본의 독도영유권주장의 한계를 분석하고 있다. 독도문제는 과거사문제와 맞물려 자주 한일 간에 현안이 되고 있다. 한국의 문헌에는 6세기부터 근세 그리고 근대에 이르기까지 울릉도를 포함한 독도관련 내용이 자주언급 된다. 그래서 한국은 독도가 역사적으로 고유영토라고 주장한다. 그러나 일본이 독도를 인식하기 시작한 시기는 한국에 비해 매우 늦은 17세기부터이다. 그리고 일본의 근세와 근대자료에 울릉도를 포함한 독도관련 내용이 등장하는데 일부 공문서에는 오늘날의 독도가 일본영토가 아니라고 기록되어있다. 이를 역으로 해석해보면 독도는 한국영토가 된다. 그러나 일본은 고문서에서 지금의 독도에 대해 한국영토로 인정한 적이 없고, 한발 더 나아가서 무주지 이었던 독도를 1905년에 일본이 국제법적으로 합법적인 방법으로 일본에 편입시켰다고 주장하고 있다. 그래서 본 논문은 일본이 주장하는 고유영토, 무주지 선점, 그리고 국제법적으로 일본영토임을 주장하는 것이 모순이며 동시에 일본의 독도영유권주장은 여러 고문서들을 통해서 보았을 때 한계가 있음을 밝히고 있다.
  • 3.

    메이지시대 일본의 울릉도·독도 정책

    김호동 | 2010, (46) | pp.65~90 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
    1) In 1876, inspired by Choseon opening policy by virtue of Japan and acquisition of Ogasawara islands territory, Japanese had opportunity to expand the activity to the Ullenungdo island and its sea where Japan had stopped fishing activity around the sea for hundreds years after ‘One Takeshima(Ulleungdo) Dispute(竹島一件)’. Shimane Ken of Japan submitted a request document about the listing Takeshima(now Ulleungdo) on the map to the Ministry of Domestic Affairs facing the map production schedule, and ruling family of Shimane Ken Mr.Toda Takayoshi(戶田敬義) submitted a petition for ‘Sailing to Takeshima(Ulleungdo)’ to Tokyo Government. Also, Mr. Muto Heigaku(武藤平學) who engaged in trade biusiness at Russia Vladivostok suggested a report about the intention of cultivation for new island he founded ‘Matsushima(松島)’ to Japan MOFA, and soon Mr. Saito Shichirohei(齋藤七郎兵衛) submitted a petition for ‘Matzushima Cultivation’, which was deeply related to the Japanese official of commercial department Mr. Sewaki Hisato(瀨脇壽人). 2) Prime Ministry of Japan ordered to exclude Takeshima(Ulleungdo) from Japanese map production process because the island was Choseon territory and didn't accepted the petition of Mr. Toda Takayoshi(戶田敬義) for Takeshima(Ulleungdo) sailing, which means Matzushima was recognized as same island with Takeshima(Ulleungdo) by Japanese Ministry of Foreign Affairs. But Japan could not abandon the thought of cultivation of the island on the basis of dispute for two names of ‘Matzushima(松島)’. After serious discussion, Japan had to admit the name ‘Matzushima(松島)’ was another name of ‘Takeshima(Ulleungdo;竹島)’. However, Japan named ‘Takeshima(竹島; Ulleungdo)’ as ‘Matzushima(松島)’ because ‘Takeshima(Ulleungdo;竹島) was definitely cleared as Choseon territory at the ‘One Takeshima(Ulleungdo) Dispute’. So, Japan named again a vague ‘Matzushima(松島)’ to Ulleungdo and Takeshima(竹島) name to Dokdo. 3) The procedure of debate during 1876~1877 in Japan MOFA on ‘Matzushima(松島)’ cultivation induced a theoretical foundation of method for territory acquisition. In the process, the logic of proof for distance in the process of territory acquisition, and the Head of Japan MOFA Public Division Mr. Tanabe Taiichi(田邊太一) who engaged in the Ogasawara islands territory acquisition activity suggested a method to cultivate the ‘Matzushima(松島)’ proving ‘ownerless’ at any proper opportunity. Mr. Kitazawa Deisei(北澤正誠) who reviewed the discussion procedure discoursed a logic of ‘vacant island policy’ which means ‘acquisition of ownership for the wasted land’ in the paper 『Takeshima Report(竹島考證)』(1882) which was edited by Japan MOFA Order. The logic of ‘Proof of ownerless’ in 1876 by Mr. Tanabe Taiichi(田邊太一) and Mr. Kitazawa Deisei(北澤正誠)'s logic of ‘acquisition of ownership for the wasted land’ for the ‘theory of prior acquisition of ownerless land’ were adopted to the acquisition of Minami Dorishima(南鳥島) and Takeshima(Dokdo).
  • 4.

  • 5.

    일본의 사료 왜곡 해석과 독도영유권 부정-최신 발굴 사료를 중심으로-

    Choi Jang-Keun | 2010, (46) | pp.113~138 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    本研究は独島歴史を歪曲する日本の実体を明らかにするものである。独島は歴史的にも国際的にも韓国領土であるに間違いない。歴史的根源とそれに基づいて現在韓国が実効支配していることがその証拠である。にもかかわらず、日本は独島に対する領有権を主張している。最近独島領有権を決定するようないくつかの資料が発掘された。元祿九丙子年朝鮮舟着岸一卷之覺書、大藏省令第4號、總理府令第24號、日露淸韓明細新圖、朴世堂の「鬱陵島」、鬱島郡の配置顛末、亜細亜小東洋図などがそれである。この資料はすべて韓国領土である根源である。しかし日本はこれらの資料の解釈を歪曲して日本領土である証拠だと主張している。このように資料を歪曲している主体は竹島の日本領土論者たちである。問題はこのように歪曲された資料解釈が何の疑いもなしで一般の日本国民が日本領土であると認識を持ち続けることである。独島問題の解決はやはり多少時間の経過が必要である。さらに毎年のように新しい多くの史料が発掘されている。今後発掘される史料も間違いなく韓国領土である証拠になるはずだ。その理由はいままで歴史的に独島が日本領土であることをしめす史料が一点もなかったからである。さらに日本国民の意識水準が高くなって物事を性格に見る目ができるからだ。今後独島問題は無理して解決しようとする日本のペースに引っ張られないように慎重になるべきである。
  • 6.

  • 7.

    近世後期 上方語에 나타나는 使役表現「(さ)する」의 四段化現象에 관한 考察 - 四段化의 傾向과 完了時期를 중심으로 -

    김용균 | 2010, (46) | pp.161~178 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    本稿は近世後期上方語(宝暦~弘化期)に現われる使役表現「(さ)する」の四段化現象について全体的傾向と完了時期を中心に考察したものである。特に、遅速差の観点から當時の有力な上方語資料である上方洒落本34種の四段化の実態の分析結果に基づいて前期上方語の傾向と奥村三雄によって指摘された従来の論、即ち後期上方語の傾向及び完了時期と比較しながら單語、活用形、文體、位相による遅速差とその原因についても検討してみた。その結果、会話文を中心にいくつかの特徴的事実が明らかにされた。 まず前期上方語の傾向と大体一致する事実をまとめると、次のようである。①單語別に見ると、使役助動詞「する」、「さする」、使役動詞「さする」の順に四段化が進んでいる。②活用形別に見ると、命令形․終止·連体形、未然形、連用形の順に四段化が進んでいる。③文體的な面から見ると、會話文の四段化は地文の四段化よりはやい。④位相的な面から見ると、男性語と女性語間による四段化の遅速は見られない。更に、後期上方語の考察を通して新しく確認された事実をまとめると、次のようである。①位相的な面から見ると女性語の四段化は男性語の四段化よりはやいという奥村三雄の従来の論とは異なっ て男性語と女性語間による四段化の遅速は見られない。②会話文における使役助動詞「する」は、天明~寛政期に完了したものと推定される。③会話文における使役助動詞「さする」は、文化~弘化期に完了したものと推定される。使役表現「(さ)する」の四段化の原因は、奈良時代(710~794)以降定着され、當時有力な活用方式であるサ行四段活用動詞(「照らす」「悩ます」等)の類推に起因すると思われるが、このような考察を通して後期上方語に現われる使役表現「(さ)する」の四段化は単純な変化過程ではない、複雑な変化過程、つまり單語、活用形、文體によって様々な遅速差を見せながら進んだということが分かった。また、前期上方語の傾向及び奥村三雄によって指摘された従来の論との共通点と相違点も分かった。
  • 8.

    『古事記』のなかのスサノヲ 皇祖神としてのスサノヲ

    JUNG KWON | 2010, (46) | pp.179~194 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    本論文は今までのスサノヲの位置づけを見直そうと試みたものである。スサノヲおよびその子孫たちははその荒ぶる性格ゆえ高天原を貫く秩序を有するアマテラスの子孫であるニニギに、造り終えた葦原中国を譲渡するのが当然であるかのように論じられてきた。だが、本当にスサノヲには皇祖神たる資格がないがゆえに国を譲らざるを得なかったのであろうか。 アマテラスとのウケヒの場面を見ると、ニニギの父に当たる三尊子、オシホミミはアマテラス一神の力で成った神ではない。スサノヲがアマテラスの勾玉を噛み砕いて成らせた神なのである。   その誕生はスサノヲの力なしではあり得なかったと言える。このような神生みはイザナギとイザナミの場合においても言え、アマテラスとスサノヲはイザナギの目と鼻から生まれたにも関わらず、イザナミを母神と認めている。さらにニニギが天降るとき持っていく宝物の中には、アマテラス系の鏡と勾玉以外に、スサノヲの宝剣であるクサナギの剣も含まれている。 剣はむかしから王位継承の象徴とされてきた。高句麗の類利の神話から分かるように、剣は自分がその国の後継者であることを証明してくれるものである。朱蒙もその剣をみて、類利を後継者と認め国を譲り渡している。スサノヲの場合もこのような観点で見ることができる。スサノヲの六代孫である大国主とニニギは系譜をたどれば同じくスサノヲの血統を引くもの同士であり、それも国譲りの一要因になっているのではないか。つまりスサノヲもアマテラスと同様にオシホミミの父神として皇祖神としての資格を十分に備えている。 『古事記』が天皇の正当性と神聖性を保証するために製作されたのであれば、高天原から地上までをも含む秩序を有する神聖な存在であり抽象的な存在であるアマテラスを母神とし、巨大な力をもって実際に国作りに関与するスサノヲを父神としてこそ、オシホミミおよびニニギは皇祖神として相応しい資格を備えたと言えるのである。
  • 9.

    「田使君賡和詩」에 보이는 徐福傳說에 관하여

    김태도 | 2010, (46) | pp.195~222 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    13世紀中頃に作詩された高麗の漢詩文には、三陟の海辺で武陵島(鬱陵島)を眺めて徐福伝説を詠んでいるものがある(「田使君賡和詩」)。そこでは、徐福一行が武陵島へ渡ったきり帰らず問題を起こしたかのような描写をしている。本稿では、その徐福伝説の三陟・蔚珍地域の口承を反映したることを明かすために、「望武陵島行」・「田使君賡和詩」の詩題と詩体の検討を加えた。その結果、その楽府詩であることがわかった。この作業を通じて、その「采詩」としての性格を浮彫りにし、徐福伝説の口承の反映であることを論証しようと試みた。「望武陵島行」において、作者の作意がよく表われている後半部の詩句を解釈するにあたって、その典故となる唐の韓愈の詩「奉酬盧給事雲夫四兄曲江荷花行見寄」を理解すべく、その典故をも調べながら基礎的な解釈を試みた。その解釈を踏まえて、「望武陵島行」の詩としての性格を、個人の情感を詠んだ古詩ではなく、憂国衷情の時局批判的な眼目をもった楽府詩であることを明かした。その延長線上で「田使君賡和詩」の楽府詩としての性格を論じ、そこの徐福伝説の口承的な性格を明かそうと試みた。 そのほかの三陟・蔚珍地域の徐福伝説の存在を明かすために、その地域から鬱陵島を眺めて詠んだ漢詩の幾つかも解釈・分析した。その結果、三陟・蔚珍地域には、過去ある時期に<鬱陵島人=徐福後裔>の口承のあったことが分かった。
  • 10.

    中世紀行文芸と歌枕 ―宇津の山を中心にー

    이영경 | 2010, (46) | pp.223~238 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    宇津の山は、始めて『伊勢物語』の「東下り」に取り上げられ、実情としての「望郷」の思いの表出が、「いと暗う細き」道、「つたかえで」、「修行者」というモチーフにより記述され、文末の「うつつ・夢」の歌に集約される。これが『伊勢物語』の宇津の山の記述の特質であり、後世の宇津の山の表現の原型となる。 それから二百年後、『俊成五社百首』と『六百番歌合』でそれぞれ「宇津の山べの蔦」と「蔦」の題で詠まれた後、『新古今和歌集』に四首も入集されることによって歌枕として定着する。そして、宇津の山は「蔦」という風物と『伊勢物語』の面影のイメージとが固定化されるが、以後、風、秋、春という季節感と自然風物が加えられ、多様なモチーフの工夫により、より情調深いイメージの広がりを持つようになる。このような『伊勢物語』と和歌の世界の宇津の山の表現は、東海道を辿る中世紀行文においても叙述される。『海道記』において宇津の山は、難所というモチーフを取り入れ、山の外観とその山を越える本人の身体的な事柄を、対句・縁語・反復などの表現方法を通して独自的に記述する。『東関紀行』は『伊勢物語』の跡を確認した後、「卒塔婆」「塚」「墓」のように新しい跡にも注目し、伝統と現実とを重ねて語ってゆく。これに対し『十六夜日記』は、『伊勢物語』の世界と自身の体験とが重なったことに驚嘆し、敘述においても和歌の伝統的なイメージや表現世界に回帰する趣向である。 以上のことから、特に『海道記』の宇津の山の表現は、『東関紀行』と『十六夜日記』とは異なり、伝統的な和歌の表現世界とはかけ離れた表現の特質が見られるのである。それは、『海道記』の支えられる社会的·文化的ネットワークや、リテラシー、イデオロギなどが、和歌という伝統とは異なるところにあったのではないかと思われる。これに関しては、今後の課題にしたい。
  • 11.

    일본의 여백문화와 요세이(余情)(2)ー<하나비>와 <기미가요>를 통해 감지할 수 있는 정서적 여백의 가능성과 관련하여ー

    Lee, Jin-Ho | 2010, (46) | pp.239~254 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    そもそも、東アジア全般にかける<間(余白)>の文化は、今に生きる文化現象の一つとして、その思想的背景の確立は、おそらく朱子学の宇宙観ㆍ世界観として、万物の生成過程に対する認識から求められよう。とはいえ、勿論こういった朱子学の思惟概念は、先行の儒学はもとより、周易の陰陽論や道教ㆍ仏教の認識論から影響を受けたもので、決してその嚆矢とは言えまい。 ところで日本の場合、<間>の文化は、従来から殊に短詩型文学ジャンルにみる言語上の省略と関連づけてしばしば問われてきた。しかし<間>についての認識は、その辞典的な意味として、視覚ㆍ聴覚以外にも、人間の普遍的な感覚を通して感知できる情緒的な<間>への可能性もあるはずで、こういった人間の共有情緒による<間>はときおり芸術方面を通して散見できる。一例として、映画<はなび>においての極端に制限された背景音楽や、日本の国歌<君が代>にみる不完全な変格の終止も例外ではなかろう。 即ち、映画の背景音楽は、劇的効果をあげるための必要不可欠な要素で、映画の切迫な場面や絶頂などに取入れられるのが一般と言える。にも拘らず、<はなび>にはその比較の対象たる<指輪物語>に比し、その比重はもとより、切迫な場面や絶頂などにもおかれないなど、極端な制限が認められる。また、<君が代>は、古来から伝わってきた壱越調という旋律を取っているとはいえ、今日の和声学からみると、その終り方が変格の中断終止、あるいは変格終止といった変格の終止を取っており、最後の部分に余韻を残す。なお、その余情として考えられるのは、その権威の変遷はあったにせよ、今に現存する天皇制を象徴するかも知れない。 そこで思うに、これらの傾向は、同文化圏の中でも、特に他の国では見られ難い現象ともいうべきで、日本の<間>の文化の広範囲性を示唆するものといえまいか。少なくとも、これらの傾向は、日本の<間>の文化への広義的理解の一環として、その意味合いを問うべきであろう。
  • 12.

    『紫式部日記』の批評精神と作家意識―ジェンダーの視点を入れて―

    SOONBOON CHEONG | 2010, (46) | pp.255~272 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    平安女流日記文学をどう定義すべきかの問題は、未だに難題の一つであるが、それは平安女流日記文学が私たちの持っている文学の概念の中―それは主に近代以降の西洋の概念である―にうまく当てはまらないからである。しかしそれは、ある意味では平安女流日記文学が現代の文学ジャンルの枠を遥かに超えるところに存在し、複雑で独特な性格を持っていることを表わすことにもなる。 例えば、『紫式部日記』は現在日記(文学)として分類されているが、実際本文は日記記録的な部分と消息文批評的な部分と二つの部分からなっている。今までは、作品の全体的な性格を考えたせいか、日記記録的な性格を中心にして論じられる場合が多く、後半の消息文批評的な部分に関する考察も、日記的性格の中に収束されがちであった。ところが、本稿で『紫式部日記』の批評的な性格を独立的に取り上げ、その意味と意義について考えてみた結果、実はこの批評性こそ他の平安女流日記文学にはあまり見られない、『紫式部日記』ならではの独自的な世界であり、またそれは『源氏物語』という長編物語を創作する作家意識にも深く繋がっていることが確認できた。 『紫式部日記』は、従来世界初の長編小説『源氏物語』の作者が書いた日記であるにもかかわらずあまり注目を受けなかったのは、『紫式部日記』を日記というジャンルの中にむりやり嵌め込み、何もかも公的な行事記録性の方に結び付けていこうとしたことに起因するのではないかと思う。後半部の消息文批評的な部分は、当時女性としてはあまり行っていない批評を様々な形で構築して見せようとしたものであり、特に三才女批評は、男性の領域に属するものを敢えて試みてみせているものと見られる。そのような意味で、『紫式部日記』は、当時のジェンダーの境界を乗り越える批評を試みたものであり、女性による新しい批評の分野を開拓してみせていると考えられる。また、そのような紫式部の批評性は当然『源氏物語』創作にも大きな基盤になっているし、実際作品の中に繰り広げられている批評や談論―例えば、作品随所に見られる歌論や「帚木」巻の女性論、「蛍」巻の物語論など―とも緊密に繋がっていると思われる。
  • 13.

    가와바타 야스나리(川端康成)의 『명인(名人)』론-바둑문화와의 관련을 중심으로-

    Kim, Chung-Gyoon | 2010, (46) | pp.273~290 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    川端康成の『名人』は、秀哉名人の引退碁を素材にしている。にもかかわらず、従来の先行研究においては、この作品は囲碁文化と関連してはあまり研究されていない。本稿はこのような先行研究の現状を克服するため、川端康成の『名人』を囲碁文化との関連を中心に考察した。 まず、『名人』の素材になった秀哉名人の引退碁のもつ囲碁史的意義について分析した。分析をとおして、日本の本因坊家の最後の本因坊である秀哉名人の引退碁は江戸時代以来の囲碁の秩序が現代囲碁の新しい秩序へと再編される時期の記念碑的対局であったことがわかった。また、この作品の基底にある囲碁観について考察した。考察の結果、語り手は江戸時代以来の日本の囲碁を芸道と見なしており、秀哉名人を芸道の実践者と見なしていることが把握できた。 『名人』は日本の囲碁の伝統への礼賛の記であると言える。この作品は、日本の囲碁が深い精神性をもっているという立場に基づいて日本の伝統の美学を表現した作品なのである。小説『名人』をとおしても、川端康成は日本の伝統的な美学を追求し、表現しようとした作家であることが確認できる。
  • 14.

    근대 <처녀>의 섹슈얼리티 - 한일 초기 여성소설을 중심으로 -

    Myung Hyae Yung | 2010, (46) | pp.291~312 | number of Cited : 2
    Abstract PDF
    近代初期の女性たちは小説という新しいジャンルを通じて、「個人」の様々な側面を言葉で浮き彫りにさせている。中でも、女性のセクシュアリティをめぐる言説は、これからの女性たちの生き方に多大な影響を与えており、注目に値する。 本稿では、日本と韓国で書かれた6篇の初期女性小説を取り上げ、当代の女学生たちの<処女>化に焦点を当てつつ、女性たちのセクシュアリティの政治性を分析している。その結果、日韓共に当時の流行りであった「自由恋愛」を徹底していることと、個としての性的自己決定権の獲得に全力であったことが判明した。しかし、日本と韓国は古くから個の文化ではなく共同体文化を築いてきているため、旧習を拒否する彼女たちの新しい考え方には馴染めないものがあったことも事実である。そこで、日本の作品からはそうした文化の葛藤から生じる<迷い>が読み取れるが、韓国の作品からは<希望>ばかりが強調されている。
  • 15.

    다매체 시대의 일본문학 교육방법론

    Chong-Hee Lee | 2010, (46) | pp.313~328 | number of Cited : 7
    Abstract PDF
    本論は、今まで教育現場で行われている日本文学の教育方法についての考察である。文学は特に誰が教えるのか、によって変数が大きい学問である。例えば、教材の選択も担当の先生によって違ったりする。また、学習者たちに文学は難しい、面白くない、文学を何のために研究するのか、と言われるようになってきた。文学は人文学の危機という雰囲気のなかでその立場が狭くなってきた。 筆者は20代に文学への情熱とともに文学に人生をかけた。今は大学の学習者から文学への情熱を見つけることができなかった。このような教育環境から、文学の重要性を学習者たちに伝えたいと思い、文学教育の方法を模索することになった。 たしかに、文学も講義室で文学を教えるとき、それに当たる教授法があるはずだろう。また、マルチメディア時代には文学教育方法も様々な形をもって進化していくだろう。多様なメディアテキストを利用して文学教育に活気を呼び起こしたい。 まず、文学教育と言語教育が同時に可能なドラマ/映画のテキストを利用する。筆者は日本の名作をドラマ化したドラマテキストを利用して、大学の<映像日本文学鑑賞>という授業を進行している。学習者たちの参加率も高いし、文学作品を、短い時間内に理解するのによい材料である。さらに、漫画やCDといったメディアテキストを利用して、より面白く、活気のある文学授業ができるようにする。   結論としては、このようなメディアテキストの教材化の方案を提起してみた。
  • 16.

    太宰治の「お伽草紙」論-「お伽草紙」における<桃太郎>の不在-

    Hyun-Ju Lee | 2010, (46) | pp.329~342 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    太宰治は戦時期に『お伽草紙』を執筆しているが、その中には日本人ならばだれもが知っている「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」など4つの昔話で構成されている。内容は太宰特有の筆致で原典をみごとにパロディー化し、結論を逆転させるなど新しい太宰文学を構築させている。しかし「お伽草紙」に日本人にもっとも知られている「桃太郎」が不在していることに注目してみた。太宰自らも述べているように当時桃太郎像は<日本一の旗を持っている>男として描かれ、軍国主義を象徴する人物として知られていた。このように桃太郎像は時代の流れによって、様々な姿で変貌してきたのである。特に小学校の国語教科書の中には素直な桃太郎から太平洋戦争後には英米と戦う強い戦士まで桃太郎像の変貌が著しく現れている。太宰が持っている<日本一の旗を持っている>桃太郎像は明治30年ごろから登場しはじめて、太平洋戦争とともにふたたび軍国主義の象徴として描かれていることがわかる。太宰はいままで様々な姿で変貌しつづけてきた桃太郎像を批判しながら、これ以上桃太郎について言及することを拒んだのである。また芥川龍之介の「桃太郎」を意識した可能性も否定できない。
  • 17.

    藤村におけるキリスト教の意義

    Im, Sung-Gyu | 2010, (46) | pp.343~362 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    作家藤村の明治期におけるキリスト教の影響と、キリスト教への接近と離反を通して、藤村の苦悩・葛藤の文学的意味を各作品に即して明らかにする。西洋近代思潮・ルネッサンスとしてのキリスト教の受容、近代精神による自我の目覚めは、古い道徳・価値観に支配されている社会との衝突を呼ぶ。藤村が近代精神と古い道徳・価値観とどういう対決をしたかを明らかにしていきたい。藤村が積極的に父を思い出したのは、「いきながらの地獄」からぬけだしたフランスの旅からである。藤村は〈新生事件〉によるフランスへの旅を単なる脱出行ではなく、求道者としての贖罪の旅と思い、自己の再生の転機をひたすら求めていた。第一次世界大戦のただなかに、祖国と民族のために戦死したフランス人に愛国心を見、戦後のパリの復旧を目のあたりにする。そこから再生、死の中から持ち来す回生の力を感じたのである。回生の力は「新生」への道へ導くことになるが、同時に、生の肯定は、日本への回帰をも導く。新たに日本を顧みる機会を得たことになる。つまり第一次世界大戦を経て、戦後のパリの復旧という目覚ましい動きの中でフランスの「傳統の回復」を目のあたりにしたことが、「傳統の回復」への新たなる自覚は、彼を日本の民族や伝統へ目を注がせることになる。
  • 18.

    실크로드와 고원(高原)

    Chaesu Kim | 2010, (46) | pp.363~390 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    まず論者はシルクロードの三つの幹線の成立時期とその地理的位置を検討した。既存のシルクロード学者たちは中央のオアシス路の成立時期を古代末期と見なし、北方の草原路と南方の海路を旧石器時代のものと判断した。だが、論者はオアシス路も北方と南方のルートと同じ時期に成立したという立場を提示した。論者はシルクロードの基礎とされる中央オアシス路の地理的位置を把握した。その結果、論者はそのルートが古代末以前の青銅器時代と鉄器時代には各地域の高原をつなぐ道に基づいて成立したという立場をとることになった。 また論者は東西の高原路に関し、約20年以上論議の対象になってきた四川省成都付近の三星堆から出土された青銅器の遺物がどのような集団によって作られたのかを考察した。その結果、それらが東西高原路を通じて西南地域に伝わった西アジアの青銅器文化を背景として出現したものだという立場をとった。そして本稿では高原路と関連し、古代中国の民族と文化がどのように形成されてきたのかについて考察した。古代中国の民族と文化は西アジア人とかれらの文化が中央アジアのパミール高原からチベット高原の北または南ルートを通じて中原地域と四川地域へ流入してゆく過程でチベット、中原、四川等の地域の土着人とその地域の土着文化と融合し、形成されたものと思われる。 最後に中国の民族と文化の基礎を形成した中国人の言語に関し、論者は次のような立場を提示している。現在、漢族と対立する「少数民族」の大多数はSOV型の言語を使い、漢族はSVO型の言語を使っている。この事実から、華夏族と夷族との区別は西アジアからのSVO型の言語を駆使する民族がSOV型の言語が駆使されるチベットの着き、中原地域へと進出してゆく過程で行われたという立場をとることができるのである。
  • 19.

    번역으로 발견된‘조선(인)’-자유토구사의 조선 고서 번역을 중심으로-

    Park Sanghyun | 2010, (46) | pp.391~412 | number of Cited : 24
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    細井肇は自由討究社を設立した後、『通俗朝鮮文庫』(1921年)と『鮮満叢書』(1922年-1923年)といった企画シリーズを通して朝鮮の古史古書を日本語で訳し、世に出した。この企画に参加した人はすべて9名であった。日本人としては細井肇、島中雄三、清水鍵吉、今村鞆、長野直彦、白石重、大沢竜二郎、平岩佑介が加わり、朝鮮人としては趙鏡夏が加わった。これらの人たちは朝鮮の古史古書を翻訳する中で、「朝鮮」と「朝鮮人」を発見するようになるが、そのことは彼らが記した訳者の「はしがき」によくあらわれている。その内容をまとめると以下のようになる。 まず、「朝鮮」については事大主義国家としての朝鮮、支那の属国としての朝鮮、模倣文明としての朝鮮、文弱の朝鮮があげられ、次に、「朝鮮人」については貪官汚吏の弊に苦しまれている朝鮮人、黨爭を助長し合う朝鮮人、荒唐無稽の迷信を信じ込む朝鮮人、女性を物格視する朝鮮人、殘忍な復讐をする朝鮮人、家族主義の弊害や依惠主義が蔓延する朝鮮人、奴隸的および屈從的な生活を強いられている朝鮮人、猜疑深い朝鮮人があげられた。ところが、彼らが「発見」した「朝鮮(人)」像は、実は彼らが持っていた「朝鮮(人)」に対する認識を朝鮮の古史古書に投影して作り出した「朝鮮(人)」像に違いないのではないか。また、翻訳を通して彼らが構築した否定的な他者としての「朝鮮(人)」像は、結局肯定的な主体としての「日本(人)」像を構築する效果があったのではないかと考えられる。ところで、朝鮮の古史古書の翻訳といった自由討究社の企画ははたしていかなる意味を持つものだったか。そのことは一個人が朝鮮の古史古書を日本語で訳したのとは大いに異なる点でその意味が考えられよう。すなわち、自由討究社の企画は朝鮮の「古史古書」の「正典(canon)」化に影響を及ぼしたのではないか。そのことは次のような翻訳の樣相をみるとわかりやすい。細井は1924年に奉公会を設立し、『朝鮮文学傑作集』(全10編)を編纂した。だが、これらはつまり『通俗朝鮮文庫』と『鮮満叢書』に納められたもののダイジエスト版であった。そして、そこには『春香伝』・『沈清伝』・『燕の脚』・『謝氏南征記』・『秋風感別曲』・『薔花紅蓮伝』・『九雲夢』・『南薰太平歌』・『淑香傳』・『雲英傳』が収録された。また、細井が死亡した後、1936年には朝鮮問題硏究所から『朝鮮叢書』(全3券)が発行された。これは細井が主軸となって翻訳・出版した書物の中から14册を選び出したものである。『牧民心書』・『雅言覚非』・『晝永編』・『海遊錄』・『丙子日記』・『懲毖錄』・『朋黨士禍の検討』・『李朝の文臣』・『莊陵誌』・『三国遺事』・『五百年奇譚』・『朝鮮歲時記』・『八域志』・『鄭鑑錄』がそれだ。結局、自由討究社が出版した『通俗朝鮮文庫』と『鮮満叢書』に納められた朝鮮の「古史古書」は奉公会の『朝鮮文学傑作集』に、また朝鮮問題硏究所の『朝鮮叢書』に収録されていく。そして朝鮮の「古史古書」の「正典」化に影響を及ぼしたこれらの翻訳作品が日本人の読者に伝えたかったことは、先ほど詳しく述べたように、事大主義国家としての「朝鮮」などと、貪官汚吏の弊に苦しまれている「朝鮮人」などであった。
  • 20.

    中世における自己確証ー韓日が共通に持ち得た三国世界観を中心にー

    박정의 | 2010, (46) | pp.413~433 | number of Cited : 1
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    中世にはいると、韓日両国は古代に持ち得た一元帝国主義的世界観では自国を保証し得なくなり、それに変る世界観を模索する必要に迫られた。そこに登場したのが仏教の普遍的世界観に基づかれた三国世界観である。 中世の『日本書紀』注釈書は、『日本書紀』の神話的敍述が仏教的宇宙論と合致することを確かめ、経の説くところと儒教․道教のいうところと『日本書紀』に述べるところが同じであると解釈した。即ち、天竺であれ、震旦であれ、同じ世界、価値を共有する普遍的世界観といえる。さらに、仏教的世界の中で、三国を種子(本朝日本)․枝葉(震旦中国)․花実(天竺印度)に譬え、価値の源は日本にあるという世界観を確立した。このような世界観を持つことによって、現実の世界を改めて説明し納得し、それに繋がる天皇の正統性もまた改めて根拠づけたといえる。 『三国遺事』の古朝鮮条は、「桓雄降臨」神話から始まる。その内容は、帝釈天桓因の命によって子桓雄天王が直接降りてきて、人間世界を仏教でもって教化するである。そして、この仏教でもって教化された世界の中において、帝釈天桓因の孫として檀君は生まれ古朝鮮を建国したのである。塔像篇の前後所將舍利条に「東震(東国)と西乾(印度)は一つの天を共にする」と、韓国・(中国・)印度三国が一つの世界にあると語っている。これは、日本が中世に持ち得た「三国世界観」と酷似するもので、『三国遺事』も同じく、仏教の普遍的世界観の中で自国の存在を確認しているといえる。さらに、『三国遺事』義湘伝敎条の記事では、「海東(韓国)に大樹が生えて枝と葉が茂り、それが延びて神州(中国)を蔽い、その上に鳳の巣があった」と、それまでの仏教的世界の中心だった中国に変わって、韓半島が仏教的世界の中心になることを暗示する。これ以外にも、『三国遺事』には、仏教の中心地が天竺・震旦から韓国に移ることを暗示する説話が多く記されている。これは、将来仏教の中心地が、天竺から中国そして韓半島へ移り、韓半島は未來永劫にわたって仏に護られる国となることを主張するものである。 本朝・震旦・天竺、つまり韓半島・中国・印度は、別々にはじまり発展するが、仏教が最後に韓半島に傳教することにより、仏教のもとに世界は一つになる。さらに、古朝鮮が「桓雄降臨」により開かれた「仏教によって教化された世界」の中に建国され、かつ、檀君が帝釈天の孫であることを最初に確認したことで、天竺・中国に対し自分たちの立場を主張、自己確証を行ったのである。『三国遺事』檀君は、民族主義でなく、仏教の三国的世界の中にあったといえる。 このように、韓日両国は、ともに中世に入り、韓国は檀君、日本は天皇を持つことによって、仏教の普遍的世界観に基づく三国世界観において、仏教的世界の源として自己を主張し、自己確証を行った。
  • 21.

    일본 지역전통축제의 관광화와 시사점 -아오모리네부타축제(青森ねぶた祭り)를 중심으로-

    Lee, Deok-Ku | 2010, (46) | pp.435~454 | number of Cited : 6
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    日本の近代化による社会構造や価値観の変化、そして一極集中による地域の危機意識は必然的に祭りに影響を及ぼし、多くの地域で伝統祭りを観光商品化して都市をマーケティングしたり観光客を呼び寄せる方便として活用している傾向にあると言えよう。青森ねぶた祭りも衰退する地方都市を活性化させる‘生存のための文化装置’であると言える。ここで、観光商品に変化された青森ねぶた祭りからは、1.主催組職においては民と管が協力する複合的構造が望ましいということと、2.祭りの予算においては税金に依存する程度を低めなければならないということ、3.プログラムが簡素化(専門化)にならなければならないということ、4.現代の祭りでは逸脱性の確保が重要であること、5.参加を誘導する装置も必要であること、6.現代の祭りでは開放性の確保とともに神聖性(祭儀性 ritual)も獲得しなければならないということなどが得られた。
  • 22.

    일계인(日系人:닛케이진)디아스포라: 초민족공동체 형성과정 연구

    Youngeon Yim | 2010, (46) | pp.455~476 | number of Cited : 10
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    本研究の目的は超国家時代日本の生活世界の中で注目されてきた日系アメリカ人ディアスポラの初期移住史と民族共同体の形成過程を探ることである。したがって、日本近現代移民史の中で日本移民者たちがどのようにしてハワイとアメリカの西海岸に集中してきたかについての移住の諸要因を分析し、現地日系人共同体の在り方がどのような過程を通して形成されたかを歴史的な観点から分析を行った。 全体的な研究の結果をまとめれば、次の通りである。 第一に、1885年から明治政府が推進してきた移住政策である'官約移民'によって日本人のハワイ移住が急激に増加した。1900年代に入ってからハワイではアメリカ大陸への日本人の進出に対する脅威を覚えた白人たちによって'黄過'と'排日法案'によって日系人は差別と蔑視をうけることになる。しかし、日系人共同体はこのような排日運動の共同対処方案の一つとしてサンフランシスコで'在米日本人連合協議会'を結成し、ワシントン州でも'日本人会'が結成され日系人共同体の強靭な団結力を見せた。 第二に、1941年代日系人の強制収容所の収監と1988年日本系アメリカ人市民連盟(JACL: Japanese American Civil League)の主導で市民法案(Civil Liberties Act)が成立し、日系人たちは収容所でアメリカ人であることを強要される脱民族化(de-ethnification)とJACLの補償運動で促進された日本人としての再民族化(re-ethnification)を経験する混乱期を迎えた。 第三に、1988年立法化された市民法案、すなわちアメリカ政府に対する強制収容補償運動における勝利は日系アメリカ人民族共同体が日本系という共通の収容所経験と市民運動を通して新たに体現された共同体を創出させた。これは日系人共同体が脱民族化と再民族化の過程を通してアメリカの中の小さい日本であると同時に第3世界の日本である超民族化(trans-ethnification)形態の民族共同体を形成したことを意味する。
  • 23.

    재일코리안에 있어서 민족축제 의미와 호스트사회와의 관계-오사카시(大阪市)와 가와사키시(川崎市)를 중심으로-

    황혜경 | 2010, (46) | pp.477~498 | number of Cited : 11
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    在日コリアンにおける民族祭の意味とホスト社会との関係に関して、大阪市と川崎市を中心に考察した。その結果、民族祭は、在日コリアンにとって、日本社会の過酷な差別と抑圧から恨みを解くことができる場所であると同時に、民族の文化に触れつつ文化を継承し、民族的自覚を呼び起こす役割をしていた。また、両地域においてホスト社会との関係は少し異なりを見せた。両地域における特徴は以下の通りである。  大阪市生野区の場合は、日常生活で、在日コリアンであることを外部に気にせずにそのまま表すことができる場所である。そのため、「生野民族文化祭」のようにホスト社会に抵抗できる祭りが生まれた。一方、川崎市川崎区の場合は、大阪市と比べて、より抑圧的な環境にあり、表面的な共生社会にすぎない。それで民族祭も「アリラン祭」・「日本のまつり」のように、ホスト社会との共生を目的としてしている。しかし、それは最初から不平等な関係ではじまったものであり、今日までその状態が続いている。「日本のまつり」という名称からもわかるように平等な共生関係とはいえない。  ここで最も注目されるのは、大阪市生野地域の祭である。大阪市の「生野コリアタウン共生祭」は生野という地域に、日本人が参加し、共生関係をスローガンに掲げて開催されたということに大きな意味をもつ。日本は在日コリアンにとって一世紀以上生きてきた場所であると同時に、これからも子孫がこの地に根を下ろして生きていくはずの場所である。そのため、日本への無条件の抵抗や反対は、日本社会との関係の解決のため、役に立たないと感じていると思われる。在日コリアンの伝統文化を日本人にも知らせ、現実的に共感させ、彼らにその存在価値を認めさせなければならない。また、在日コリアンの世代が若くなればなるほど、片親のみ在日コリアンである場合が増えつつある現在、このような現実も看過することができなかったと思われる。このような考えが平等な共生社会の必要性を感じさせたと思われる。また、この時期は、日本社会で韓流ブームと重なった時期であり、日本人の韓国・韓国人・在日コリアンに対する認識が肯定的に変わりつつあった。これをきっかけに、在日コリアンとホスト社会が対等な関係としての共生社会を築くための第一歩になるのではないかと期待される。