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pISSN : 1226-3605 / eISSN : 2733-8908

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2011, Vol., No.50

  • 1.

    「~ヨウトスル」の許容度に見られる世代差 -一人称主語と三人称主語の比較-

    구니시와 사토미 | 2011, (50) | pp.5~24 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    本稿は「~ヨウトスル」の用法に世代差があることについて論じたものである。(1)のように「~ヨウトスル」は一人称主語において用いると不自然である。しかし、筆者が行なった10代から60代までの150名の日本語母語話者を対象としたアンケート調査によると、(1)のようにカラオケに行く意志がある場合は不自然であるが、(2)のようにカラオケに行く意志がない場合は許容されやすくなる。さらに、(2)は世代が下がると許容度が上がる。 (1)  * (私は)今からカラオケに行こうとする。(2)  ?? (私は)無意識のうちにカラオケに行こうとする。 また、(3)のように一人称主語は不自然であるが、(4)のように三人称主語は許容されやすくなる。さらに、(4)は世代が下がるほど許容度が上がる。 (3)  * (私は)カラオケに行こうとする。(4)  ? (彼は)カラオケに行こうとする。 本稿は(2)、(4)における許容度の世代差について、世代が下がるほど自分自身を客体化して捉えるためだと考え、「視点」の違いの観点から考察した。また、この「視点」の違いによる世代差にはa)人称、b)意志性の有無、c)ル形とテイル形、d)主節と従属節という4つの要素が関わっていると考え、分析した。その結果、世代が下がると第三者だけでなく、話し手自身を客体化するようになっていることが分かった。
  • 2.

    『沙石集』의 敬語硏究 -「侍り」와「候ふ」를 中心으로 -

    도기정 | 2011, (50) | pp.25~50 | number of Cited : 2
    Abstract PDF
    本稿では古典敬語の究の一環として中世鎌倉期の佛敎說話集である『沙石集』に用いられている「侍り」と「候ふ」を地の文と話文に分け、その待遇性について考察した。地の敍述においては、すでに古語化しつつある「侍り」を用いて表現の主である作者が不特定多の者に古めかしさ「改まり」「丁重さ」などを容とする文章のある種の效果を語りかけようとする場合に使われている。って、作者の感想、明、追想など、作者側の事柄を記述する文に多く見られる。また、和歌の詞書にも用いられている。一方、候ふは地の文においてその使用例が稀であり、しかも謙語用法で用いられたのは一例しか見い出すことができなかった。 話文においては、候ふに倒されたといわれる「侍り」が依然として用いられており、語法上の一つの特を持っている。ただ、「候ふ」に比べて敬度も低く、その聞き手も上級僧侶までを上限線として使っているのが一般的で、主に僧侶や超人的な存在(動物)の話に使用されている。一方。代語「候ふ」は庶民から天皇まで幅く使われ、その敬度においても高い。特に、鎌倉政の執者や武士階級に用され、時の口語として通用されている。 中世鎌倉期の資料であるにもわらず、話文において、場合によっては侍りが用いられていることは話集の時代設定が常に過去であるために、平安期の口語である「侍り」の表現を通して者に無理なく享受を引きおこすという文章のある效果を得るためであると判できる。
  • 3.

    日韓語の動詞結合形成モデルの活用 ―「~食べる」と「~먹다」の例を通して―

    이충규 | 2011, (50) | pp.41~60 | number of Cited : 7
    Abstract PDF
     日本語と韓国語には、動詞と動詞の結合である「動詞結合」が豊富に存在し、それらの本質を把握するためには多様な観点からのアプローチが求められる。 そこで、李(2010b)では、その一環として、両言語の動詞結合がどのように形成され、どのように分類できるか、その形成過程や分類を「日韓語の動詞結合形成モデル」を構築することによって確認した。同モデルは動詞結合の形成過程と分類を操作手順の段階を想定して説明するものであり、両言語の動詞結合の全体像を把握するために構築したものである。 本稿は、李(2010b)のモデルが個別例の分析にも活用可能であることを示したものである。具体的には、日本語の「食べる」とそれに対応する韓国語の「먹다」をV2とする動詞結合について考察し、そこに見られる主な特徴として、①日韓語ともに介在要素無しタイプとしては具現されない、②日韓語ともに「補助動詞結合」と分類される例が存在しない、③日本語には介在要素有りタイプの「複合動詞」が見当たらないが、韓国語には介在要素有りタイプの「複合動詞」がかなり見られることを指摘した後、この考察結果を李(2010b)のモデルに反映して確認することによって、同モデルが個別例の分析結果を把握する際にも役に立つことを主張した。
  • 4.

    『捷解新語』卷十의 文面解讀(Ⅲ)

    임창규 | 2011, (50) | pp.61~76 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    本稿は、従来の研究では研究対象から排除されてきた『捷解新語』巻十の八帳から十三帳までの候文体書簡文について検討したものである。即ち、本稿では、卷十の語彙の性格及びそれぞれ語彙の特徴、文の構造について未だに検討されていないことに対し、『捷解新語』の書かれたほぼ同時代の文献である『邦訳日葡辞書』、『日本大文典』などの文献、『時代別國語大辭典』『日本国語大辞典』などの辞書類等、多数の参考文献を用い、巻十に現れる個々の語義を正確に把握すると共に、日本文及び対応するハングル対訳、更には文の前後の状況までを考慮の対象とし、巻十の文面を繊細で且つ緻密に解読を試みたものである。こうした検討により巻十の資料的価値をより正しく評価できると共に、『捷解新語』全体の改修傾向までを改めて確認できると思われたからである。また、こうした研究が『捷解新語』を現代語に解読するに当たって、より妥当な原則や方法を提示できるからである。 検討の結果、改修本の不自然なハングル翻訳が重刊本においてより自然な表現に改修されている傾向が見られた。改修本と重刊本の刊行時期がそれほど離れていないことを考慮に入れると、語彙の時代的変遷というより、当時の語彙としても不自然だった改修本の直訳に近いハングル対訳が重刊本において修正され、より自然な形態に改められたと考えられる。また、改修本において日·韓両言語の文が一致しない場合には重刊本においては対応する文が省略乃至削除されていることに対して注目を要する。つまり、重刊本の改修傾向を表す一つの重要な側面を現すものと思われ、これからも注目すべきところであると考えられる。 更に、日本文に対応するハングル対訳の一つの特徴として上げられることであるが、日本語の語彙を直訳して対訳しているところである。日本語の「五三日中」を改修本において「五三日中에」に,重刊本では「五三日內에」にしているが、これは一見すると誤謬であると考えられがちである。こうした現象について本稿では決して誤謬でなく、日本語に對應する当時の韓国語の語彙が存在していても、自然な表現と日本語を直譯したものの兩方を示すことによって、兩言語における語彙の相違も敎えられるという、はっきりした目的意識によるものであると論じた。 『捷解新語』の正確な現代語解読が完成した際、『捷解新語』の研究がより一層の完結性を確保できると考え、これからも卷十の現代語解読の完成を目指したい。
  • 5.

    재귀적 동사에 관한 韓・日 비교연구* ―「입다/벗다」의 의미를 지닌 동사를 중심으로 ―

    전성용 | 2011, (50) | pp.77~92 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    この論文は、日本語と韓国語において、衣服に関わる再帰動詞の特徴を、韓国語と日本語で書かれた作品の中に実際に使われている例に基づいて、明らかにしたものである。衣類を身につける場合も、日本語の方が韓国語より、その表す語彙が豊かであり、体から衣類をとりはずす場合も、日本語の方が韓国語より、それを表す語彙が豊かである。また、日本語の場合は、衣類を身につける時、その衣類が上半身のものか、下半身のものかによって、その使われる動詞が異なるのに対して、韓国語の場合は、衣類が上半身のものか、下半身のものかには関わりなく衣類であれば、それを身につける時は、その表す動詞が同じである。(韓国語の場合は、ものの種類(衣類の場合は「입다」で、靴や靴下の類は「신다」である)によって、その表す語彙が異なるのである。)
  • 6.

    学術論文の文末表現に関する一考察  ー「形態」に注目してー

    조선영 | Cho, Nam-Sung | 2011, (50) | pp.93~110 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    本稿は、学術論文にはどのような文末表現が多く使われているのかを、「はじめに」などの導入の章や「おわりに」などのしめくくりの章において考察したものである。文末表現を考察する際に、その前に接続されている表現までを視野にいれ、作文教育など、より実用的に役に立てるような表現リストを提示しようと試みた。 学術論文の「はじめに」と「おわりに」とに多く現われる文末表現としては、「~である」「動詞の基本形」「~ている」「~れる/られる」「~た」「~がある」「たい」「ない」などが挙げられる。そこで、上位5位までの文末表現について、どのような表現が前に来ているのかなど、形態に注目してより詳細に考察した。表現によっては、「はじめに」と「おわりに」とで、現われる様相が異なる場合もあり、その理由なども考えてみた。このようなことも含めて、論文の作成に参考にできるだろうと期待する。 今後の課題として、今回取り上げることができなかった表現や、文末表現の「言い回し」、また意味の類似した多様な文末表現に焦点を当ててみたい。
  • 7.

    일본 근세문학에 나타난 온천문화

    박찬기 | 2011, (50) | pp.111~128 | number of Cited : 2
    Abstract PDF
     日本の近世以後、武士政權による封建體制の下で、藩直轄により管理‧經營されてきた温泉は各々整備‧発展されていく。それにより、温泉の大衆化が行われ、温泉に関する知識及びマニュアルが整備される所謂「温泉文化」が表れる。例えば、温泉番付、錦絵,版画,実用書等があり、文芸として成立された温泉紀行、川柳、狂歌、短歌等も江戸時代の温泉文化を理解するのに役に立つ。 溫泉の原點は湯治にある。しかし、温泉紀行を始めとする文芸には、挿絵の描写には部分的に表れるものの、温泉浴の様子を具体的に述べた文はあまり見つからない。それは、おそらく、服を脱いで身体を露出する入湯の行為がごく日常に関する卑俗なことであったから、文学の素材として取り入れにくい点もあったであろう。まるで、食事をする行為が文学の素材として描かれにくかった点とも脈を同じくする。長い旅の末、辿り着いた温泉は隔離された別天地として描かれ、湯治のための空間ではあるものの、七日間を一まわりとする長期の滞在であったがために、ここでは趣味、娯楽を楽しむこともでき、ましてや湯女、旅芸人等による遊興と文化伝授の場としても活用されたことが確認できる。つまり、江戸時代後期の温泉は交通路の発達とともに宿泊施設等の整備も行われ、湯治のための施設は勿論のこと、基本的なレジャー施設をも兼ね備えた温泉町としての役割を担っていたことがわかる。
  • 8.

    文字無き古代日本の実現 ―『古事記伝』の『古事記』序の読みを中心に―

    배관문 | 2011, (50) | pp.129~142 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    本稿は、本居宣長の言語認識に焦点を当てていた小林秀雄の宣長批評を一つの手がかりにし、宣長が彼の半生をささげた『古事記』注釈の意味を考えようとしたものである。宣長にとって『古事記』は、文字をもたなかった古代日本の、あるべき「古語」を見出し得る第一の文献であった。『古事記』序を証明資料として用いたことや、注釈の対象として『日本書紀』でなく、『古事記』を選んだことなどは、こういった認識に深くかかわっている。ただし、以上のような議論だけでは、『古事記伝』そのものに即した宣長理解あるいは宣長批判にはならず、そこで本稿は『古事記伝』のテキスト分析の重要性を問題提起として確認したのである。ひとまずの結論として、宣長の『古事記』注釈の営みは「(古)言」探しという方法的自覚と相まって「(古)事」を求めていたところに意味があると指摘し、だからこそ『古事記伝』において『古事記』は世界の原典として成り得たのだろうという今後の展望を示した。
  • 9.

    『勢語臆断』について

    허정은 | 2011, (50) | pp.143~158 | number of Cited : 5
    Abstract PDF
    『伊勢物語』注釈史においては、国学者と称せられた人々が主流となっている注釈を新注と呼んでいる。本論文は、このような新注の時代を開く『勢語臆断』の内容的特徴を考察したものである。それで、契冲の『伊勢物語』に対する理解、また『勢語臆断』を通じて新注の注釈態度を見い出すことができる。 『勢語臆断』の内容的特徴について考察してみると、まず、歌を理解する態度については、歌の「たとふ」が持っている「本意」を考え、理解しようとする態度が見られる。 二番目は、物語の「文勢」について説明すると、『伊勢物語』を業平の一生の事を記していると考えながら、「虚」と「実」が混じっているのが「物語」であると理解している。それで、作者の「筆」が表れている所は「虚」で、このような所は『実録』などと合わない場合である。作者は「虚」を通じて、「物語」に対する「文勢」を顕していると述べている。 三番目は、文献的な証明を重視する注釈態度であるが、まず、語源について、詳しく注釈するのが目立っているが、旧注の師説を従って注釈を書き加える形式ではなく、『勢語臆断』では、文献を通じて、記録を重視する態度であるのが確認できる。そして、史実を証明しようとする注釈態度が見られるが、『伊勢物語』の登場する人物の事蹟については『三代実録』を引用しながら、その史実を正確に証そうとしている。 以上のように、契冲の『勢語臆断』は、師説を従って注釈を加える旧注に比べて、古学の復興と記録を重視する文献中心の注釈態度で一貫しており、そういう意味で『伊勢物語』注釈史において、新注の時代を開く注釈書として位置づけられよう。古学の復興と記録を重視する注釈態度を通じて、『伊勢物語』の注釈史の中での『勢語臆断』の位置付けが可能になってくることであろう。
  • 10.

    『草枕』における<個>に関する考察

    가네코 마스키 | 2011, (50) | pp.159~182 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    夏目漱石の『草枕』は、一般には「非人情」というキーワードに括られ、この作家の作品としては珍しく美的側面が強調されている小説であると認識されている。しかしここにも漱石の他の作品に表れるが如き、明治維新から近代国家形成過程における知識人の苦闘する姿が随所に見受けられ、日本人が<個>を意識しはじめた時期の、このような軌跡が反映されていることを確認することができる。 本稿では『草枕』執筆当時の漱石の創作態度、『草枕』に表れた日露戦争と漱石の個人史、那美というヒロインのキャラクターの三点に注目し、<個>の問題との関連で考察を試みた。執筆当時の創作態度では、いくつかの書簡に表れた漱石の気概の中に、「読者の頭に、美しい感じが残りさへすれば、それで満足」というソフトな言葉とは裏腹に、この作家が<個>の芸術を意識し、いかに西洋に追随するだけではない個性を真摯に求めていたかを伺い知ることができた。また日露戦争との関連では、久一の出征に、漱石の徴兵忌避という個人史が微妙に反映されているのではないかという仮説のもとに、『草枕』が戦争という<個>を生きられない時代を背景としていることの意味について触れてみた。また那美については、平塚らいてうという当時のニューウェーブとも言える人物がモデルとなっていることを頼りに、このヒロインの奇矯さの源を浪漫主義的なものに求めると同時に、『草枕』のキーワードである「非人情」が、主人公が那美に<個>を見出す方法として用いられているとの解釈を試みた。
  • 11.

    나쓰메 소세키의 생애와 문학에 미친 학벌 고찰 - 제국대학을 중심으로 -

    Kwon HyukGun | Park,Hey-Min | 2011, (50) | pp.183~196 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    論者が學閥主義が胎動した近代時代初期に帝国大学英文科出身だった漱石の生涯と文学に學閥がどんな影響を及ぼしたのかに対して分析したものを要約すると次の通りである。第一に、漱石は第一高等中學校を経て帝國大學英文科を卒業という日本社會では正統エリートコースを踏んだ元祖學歷エリート出身だ。子供時代に里子や養子に出されて決して裕福ではない家庭環境で育った彼は、大學在學中から何としても帝國大學を卒業しなければならないという學歷重視傾向を見せた。彼が大學卒業後に東京高等師範學校の敎師になれたのも帝國大學卒業者という學閥が決定的な役割を果たした。松山中學校に敎師として赴任した際、校長の月給60円より20円多い80円の月給を手にすることができたのは、彼に實力があったこともあるが、明治政府が認定した帝國大學出身という身分徵表と學閥があったがゆえに可能だったのである。第二に、小宮豊隆、森田草平、岩波茂雄ら、東京帝國大學で漱石に教えをうけた木曜會出身の門下生達は、死後も東京新宿区にある漱石山房に集まり、『漱石全集』を始めとした一連の漱石文學關連著作物を発表して、彼を國民作家、日本文學を代表する文豪として推仰を受けるまでにする土臺を作った。漱石が國民作家·文豪と認められるようになったのは彼の文學が素晴らしいという点もあるが、死後、東京帝國大學出身のエリート門下生らによる獻身的な著述出版によって、彼の文學硏究が一般硏究者にまで広がったためである。第三に、漱石文學の鑛脈を後世に傳承することのできた重要な一因は、すぐれた文學作品を創造し、刊行したことだ。以後、彼の弟子である東京帝國大學出身者らを主軸とした學閥の力によって漱石文學の土臺が構築され、美化·擴散する過程を経たのである。そうであるなら日本近代文學作家の中で漱石ほど帝國大學という學閥の惠澤を受けた作家はおらず、學閥が彼を國民作家、文豪に押し上げるのに寄与したのだと考えられる。
  • 12.

    도쿠토미 소호(徳富蘇峰)와 ‘전쟁’* ― ‘대일본팽창론’을 중심으로 ―

    Song Seok Won | 2011, (50) | pp.197~214 | number of Cited : 5
    Abstract PDF
    徳富蘇峰は、明治以降、日本を代表する言論人、論客として大いに活躍した。とくに、明治の初期から半ばに至る新聞の幕開けの時期における彼の足跡は著しいものがある。当時の新聞が、小新聞と大新聞とに明確に区分されて熾烈な競争を繰り広げられた時期に、政論が中心である大新聞を代表する言論人としての蘇峰の影響力は大きなものであったといえよう。多数の読者達が蘇峰という名前だけで新聞を購買したという事実は、一応、彼の新聞人としての成功を意味するものでもあったはずである。しかし、蘇峰は、自身が新聞人であることに単に満足してはいなかった。彼は、本来新聞というメディアが持つ政治社会への影響力を十分理解していたし、またそれを積極的に活用した。大変革の時代を迎え、国民の心構えからはじめて、国家独立と東洋の平和を為すための方策として大日本膨張論を主張したのである。これによって、国民は戦争する国民でなければならなくなった。戦争をする国民は、近代国家が求めてやまなかった、国家のために存在する人間そのものであったといえる。そのように、蘇峰は、言論人であるとともに国権論者・帝国主義者でもあったといえる。
  • 13.

    일본현대소설의 문화관련 어휘 번역 小考 - 村上春樹 『ノルウェイの森』의 번역텍스트 비교 -

    정인영 | 2011, (50) | pp.215~234 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
     翻訳は、言葉や文章だけではなく、文化の転換でもある。言葉と文化の関係はものすごく密接なので、文化が排除され言葉や文章だけが訳されたテキストは、元テキストと同じテキストだとは言えない。テキストとは文化が言葉に表現されたもので正しい翻訳を作るためには文化的なコンテキストを考えた翻訳方法が必要である。本論文は、日本の現代作家村上春樹(1949~)の小説『ノルウェイの森』(1987)の韓国語翻訳三つを、日韓翻訳における文化に関連されている言葉の翻訳を中心として考察した比較研究である。日本文学の翻訳においての文化関連言葉というのは、文化的な特徴を表す言葉のことである。又、『ノルウェイの森』は、村上春樹の小説の中で初めて韓国に紹介された作品であり、いろいろな翻訳者の翻訳が存在しているので、翻訳の比較という論文の目的に当たっていると思い、長い期間にかけて翻訳されたので、翻訳時期によって翻訳された言葉が変わるのかということも確認できると思った。翻訳文の検討を通して、文化的な差がある言葉の翻訳の時、様々な翻訳方法が有り得ることがわかった。固有名詞の翻訳は、日本語の発音どおり訳することが望ましい。又、日本特有の文化にかかわる言葉の場合、より一般的な言葉に置き換える方法は読者が作品を読むにはいい翻訳方法だが、こういう方法は部分的に使ったほうがいいと思われる。元テキストの文化背景を理解することはまともな翻訳にとても重要だと言える。従って、翻訳者は言葉力だけじゃなく、文化の知識も向上するべきだと思われる。
  • 14.

    기쿠치 간(菊池寛)과 조선예술상* ―제국의 예술제도와 히에라르키―

    홍선영 | 2011, (50) | pp.235~254 | number of Cited : 14
    Abstract PDF
     文化芸術制度において「褒賞」、競演, コンクールなどの競合による文学及び芸術作品のヒエラルキーは国家権力による「総動員体制」において強力な文化装置として利用されてきた。また近代的学問知識と文化芸術に対する国家の保護奨励政策とは「国民統合」と国民国家形成に寄与する学術及び文芸の「動員」にほかならなかった。したがって本稿は「帝国」日本の植民地統治において文化芸術制度による統制は「褒賞」を通じる序列化と差別的排除など非常に多様な方式において行われてきた点を明らかにした。とくに菊池寛が朝鮮芸術のために1939年新たに設定した「朝鮮芸術賞」という制度を通じて朝鮮の芸術界は芸術賞受賞作/非授賞作という文化的ヒエラルキーの中に編入させようとしたこと、朝鮮芸術賞を設定した目的は「我国文化」すなわち日本文化のために朝鮮の芸術活動を奨励することにあった。そしてそれは朝鮮固有の伝統と歴史を保有する領域が厳然に存在するにもかかわらずこれを「朝鮮芸術」というただ一つのフレームの中で「我国文化」のなかの「朝鮮芸術」という位階的秩序=ヒエラルキーを創出させた点を明らかにした。
  • 15.

    일제와 조선 교육정책 : 조선교육령을 중심으로

    Kwak, Jin O | 2011, (50) | pp.255~272 | number of Cited : 9
    Abstract PDF
    Japanese Colonial Education in Korea : Focus on the Korean Educational Ordinance during the Japanese Colonial Period This thesis examined the Korean education policy in the period of Japan's colonial rule of Korea centering on history. Also, this paper focused on the systematization of school at the law making process of the Korean Educational Ordinance in the Japanese colonial period and researched school change according to reorganization of the school system. From the first to fourth revision of the Korean Educational Ordinance, they were designed to make the Korean school system the same as the Japanese educational system. However,along with the enforcement of the third educational ordinance for Korea, Japan waged the Sino-Japanese War and pushed ahead with a series of policies to facilitate the unity of residents in their colonies and recruit soldiers. Japan was aware that education was mandatory for fortifying its colonial rule, and announced the revised educational ordinance for Korea in 1938 in light of wartime conditions. And fourth educational ordinance aimed at nurturing the loyal people of the Japanese emperor and attached importance to history education as means to have children realize their missions. According to the Korean Educational Ordinance in the Japanese colonial period which led to Korean, first, the textbooks demand that learners be dedicated to Japan and the Japanese emperor in return for his mercy on the ground that the emperor was the very nation. Second, at the same time, the textbooks advocated Japan's colonial rule of Korea on the ground that Korea and Japan shared same ideologies, and third, stressed the status of Japan in the world to have learners take pride in the nation. And the textbooks emphasized that learners should take the initiative in war of aggression as well.
  • 16.

    식민지 조선에서의 도평의회의 정치적 전개 -김기정 징토(懲討) 시민대회를 중심으로-

    KIM,DONG-MYUNG | 2011, (50) | pp.273~290 | number of Cited : 9
    Abstract PDF
    本研究の目的は、1927年慶尙南道統營で起きた「金淇正懲討市民大會」を中心に日本帝國主義の支配下植民地朝鮮において展開された道評議會の歴史的性格の一端を明らかにすることにある。金淇正懲討市民大會は、当時道評議會員であった金淇正が朝鮮人の民族的立場を無視する発言と行動をすると、一般朝鮮人たちが彼を懲討するために公職辞退などを求めて行った抗議示威である。金淇正が市民たちの要求を拒否し、市民大會の勢力が拡大することを恐れた当局が金淇正を擁護し市民大會の活動を弾圧すると、それに反発して大規模の示威に発展した。これに当局は更なる示威の拡散を防ぐために市民大會の幹部らを拘束し金淇正の公職辞退を受理し、拘束者に実刑を言い渡すことにより事件は片付けられた。 このような金淇正懲討市民大會の一連の過程は、道知事の諮問機関である道評議會に参加した朝鮮人議員が一方的に協力することができなかったことをよく示している。すなわち、日本帝国主義の支配下植民地朝鮮での道評議會の政治的展開は、道評議會員が支配当局と朝鮮社会を間におき媒介的位置において行われた。道評議會員は地域住民の支持を得てより多くの政治的影響力を確保するために支配権力との葛藤と対立も敢行しなければならなかった。また、支配当局との信用をもとに朝鮮人の要求を貫徹させるために彼らとの協力と協調も必要であった。朝鮮に対する植民地支配を永久に続こうとする日本帝国主義を相手に、特に抵抗意識の強い朝鮮社会において行われた朝鮮人道評議會員の綱渡りは決して易しい曲芸ではなかった.
  • 17.

    『季刊三千里』の立場(2) ー金日成主義批判による北韓との決別ー

    박정의 | 2011, (50) | pp.291~310 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
    『季刊三千里』において、金日成主義を評して、北が言うようにマルクス主義を発展させた社会主義革命路線ではなく、ただ独裁政権を維持するために、人民に対し労働党(金日成)への奴隷化を強要するものに過ぎなく、さらに、その根本理論である主体思想のいう主体型の人間とは、奴隷化した人間を示すと結論付けている。 さらに総連に対しては、金日成主義を指導理念として受け入れることによって、在日を代表をする大衆団体としての立場を放棄し、北の公民団体に陥った。これは、総連の創立理念に反するもので、血を流し組織を守ってきた者達への裏切り行為であり、祖国統一にとって妨げでしかないと批判している。 今まで総連が『季刊三千里』の編集委員を裏切り者と罵ってきたが、ここでは反対に『季刊三千里』が総連を裏切り者と批判している。しかし、お互い裏切った対象が異っている。『季刊三千里』は北即ち金日成を裏切ったのであって、総連は在日を裏切ったことになる。そこに、『季刊三千里』と総連との対立の本質が見えてくる。即ち、「在日擁護」対「北擁護」の対立構造であったと言える。 当時、在日にとって最優先の課題が祖国統一であった。祖国統一を望む心に誰も異論を挟むことが出来なかった。その祖国統一を指導する能力を欠いた総連は、在日にとって価値がなく、また妨げの存在でしかないことになる。ここに、金日成主義批判の本質があった。 この批判は、単に総連にだけ向けられたものではない。『季刊三千里』の論調は、金日成主義を批判することによって、金日成まで批判したと言え、北との決別を宣言したものである。 以上から、『季刊三千里』の立場は、反総連を越え反「朝鮮民主主義人民共和国」と結論づけられる。
  • 18.

    内村鑑三に見る「無」 -「無教会」において-

    스즈키 구미코 | 2011, (50) | pp.311~328 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    This report is the article that assigned a focus to a meaning of "Non" of "Non-Church" of Kanzou Uchimura. I confirm a form of the faith to gain power by the negation of a "church" system and the ceremony that Uchimura intended consciously by "Non-Church" newly. "God's country", "construction of heaven" and "Catholic Church" becomes desire in place of "a church", but the God recognition as "a complete person" of Jesus Christ establishes it by the work of The Holy Spirit then, and it is it that I put an end to a suffering theological newly. I examine whether a Japanese way of element contains it in the faith posture that "Non-Church" pursued of Uchimura.  At first, in comparison with the heritage, "I" confirm God recognition as "the complete person" of Jesus Christ from a state named "the existence" that "I"stay through the work of The Holy Spirit who assumed that Uchimura is different from the Christian revival because it is it in "nothing". In addition, in this God recognition, I confirm that "my" "Non" is concerned with the change of the opinion for the Jodo sect of Buddhism / the Jodo Shin sect of Buddhism that an object to depend on resembles crucially. Furthermore, I was contrastive, and Uchimura considered God recognition of "person who should have named my leader " it and Kierkegaard who assumed it person from "Non -Church" whether "Non" of this "me" contained a Japanese way of element by examining. "Non-Church" of Uchimura may right confirm whether you contain a Japanese way of element one object and the self, the commonality of it being it with one oneself and others by a difference point with the God recognition of Kierkegaard through the logic of the intellectualism called "the moment", one, feelings called Japanese mind "Makoto".
  • 19.

  • 20.

    일계인디아스포라 브라질 이주사와 전시 문화콘텐츠 고찰

    Youngeon Yim | 2011, (50) | pp.345~368 | number of Cited : 6
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    This paper takes focuses on the migration history of Japanese Brazilian since 1908 and their returning phenomenon around 1980s, tries to make analyses on the establishment of JICA and some exhibited materials. Japanese Brazilians mainly lived in the poor rural area, especially after the United States published the anti-Japanese immigration act in 1924, which completely forbid Japanese enter the US, and then the Japanese immigrants to Brazil increased greatly in 1925. In the era of globalization, the government of Japan had changed the immigration law, which attracted a large number of Japanese Brazilians to return to Japan, and greatly solve the labor problem in the home appliance industry and the car manufacturing industry. The research results can be summarized as the following three aspects:1. The first Japanese immigrants (781people, mostly farmers) moved to Brazil in 1908 by the Kasato Maru(ship) from the Japanese port of Kobe to the Port of Santos of Brazil, which is the beginning to immigrate to the South America. It mainly because of the prolonged depression in the rural area of Japan. However, around 1945, owing to the great recession, exporting immigrants to Brazil became a very important policy for Japan to solve the extreme economy situation. 2. Since 1980, with the globalization of Japan and the requirement to revise the immigration Law from the 1st generation of Japanese Diaspora, the 2nd and 3rd generations of Japanese Diasporas in South America began to return to Japan as foreign labors. This phenomenon also called the ‘U-turn’ phenomenon of Japanese Diaspora. These Japanese Diasporas were accepted as the legal labor force, which solved the labor shortage problem in the home appliance industry and the car manufacturing industry. To some degree, it also limited the illegal foreign labors. 3. The immigration history of Japanese Brazilian began from 1908 and their returning phenomenon around 1980 had gained a great attention in Japan,which made the founding of JICA become possible. In JICA, through using the information system, the photos of Japanese Diasporas, the exhibited material in the digital archive and internet and searching material over the network can be easily shared. In addition, through the international center or the culture education department, people can learn the immigration history and experience the miserable life of these Japanese Diasporas indirectly. The implications of this study are as follows: why did Japanese Diasporas move to Brazil after the anti-Japanese immigration act of the US and the two way investigation on the returning phenomenon of Japanese Diasporas have a great implication. Furthermore, the investigation on the immigration history of JICA and the exhibited culture contents and the analysis on how to apply the immigration history of Japanese Diasporas into education from the modern perspective, which presented some implications to the multi-culturalization of Korean society and the founding of Overseas Korean data library.
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    日本語学校に通う韓国人留学生たちのパーソナル・ネットワーク形成過程分析(2) ―インターネットの役割分析―

    Jung Geun Ha | 2011, (50) | pp.369~391 | number of Cited : 0
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     韓国人留学生たちが来日してからよく利用しているインターネットサービスはサイワールド(cyworld、싸이월드)とポータルサイト「Daum caféの동경유학행모임」であった。Daum caféとサイワールドの大きな違いは、サイトを利用している人たちの「緊密度」にあった。サイワールドは対面接触が頻繁な強い紐帯の人たち同士のパーソナル・ネットワークの維持手段として利用されており、Daum caféは、会社や学校を離れた場所での顔も名前も知らない匿名の人たち、つまり緊密度の弱い紐帯の人たちが作る架空の集まりであった。「동경유학행모임」というサイトは匿名の人たちが入会して運営されているサイトであるため、会員たちの関係がどうなっているのかと聞かれても、それは分からない。ただ、まったく知らない人たちが情報を交換し合い、助け合う弱い紐帯のインターネットサイトである。Daum Caféの「동경유학행모임」は、M・グラノヴェター(渡辺深訳 1998)が『転職』の3章で言っている、弱い紐帯の新しいバージョンに値する(M・グラノヴェターが言う、弱い紐帯は対面頻度によって、強い紐帯と弱い紐帯を分けているが、本論文では対面関係とは一切関係ない。ただインターネットサイトの会員であることに着目して言っている)。つまり、このサイトに入会している人たちを分析すると、彼らは日本留学を共通分母にして集まっている趣味集団である。それ故、このサイトには様々な専攻の人たちが集まっており、また学歴、年齢、経済状況など、人的資本がバラバラな集団である。このように、何もかもがバラバラだから、情報が豊富である。だから留学生たちは동경유학행모임という弱い紐帯のインターネットサイト(開放的インターネットサイト)に接続し、ソーシャル・サポートをはじめ、ソーシャル・スキルやパーソナル・ネットワーク形成までも期待するのである。それに比べ、サイワールドはまず、対面頻度が高い人たち、すなわちとても親しい人同士が強い紐帯で結ばれ、運営されるインターネットサイトであり、携帯電話とともに韓国社会に新しく現われた連絡手段である。しかし、このインターネットサイトは非常に閉鎖的であるがゆえにお互いの心理的なサポートは期待されるが、情報収集にはあまり期待できないという特徴がある。韓国人留学生たちはこの強い紐帯(閉鎖的)/弱い紐帯(開放的)のインターネットサイトを都合よく使い分け、異文化での留学生活を乗り越えようとしているのである。