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pISSN : 1226-3605 / eISSN : 2733-8908

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2012, Vol., No.55

  • 1.

    韓国語の音韻体系を応用した日本語促音の発音指導

    Kang, Yeon-Hwa | 2012, (55) | pp.5~22 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    韓国人日本語学習者の特殊拍の知覚と生成に現れる問題点は以前から数多く指摘されてきたが、実際に現場で活用できる指導法に関する研究は少ない。本研究はこの問題状況を基点とし、韓国人日本語学習者の初級と中級各10名を対象として促音の生成に見られる特徴と誤りの傾向を調べた。さらに、音声指導法の効果を検証することを目的として、金・尾崎(1999)『韓国人のための発音クリニック』で提案している韓国語の音韻体系を応用した指導法を利用した指導法による指導と練習の効果を検討するために実験を行い、以下のことが明らかとなった。 促音の持続時間の長さを初級・中級学習者と日本語母語話者を比べると、中級の場合は日本語母語話者の持続時間により近づいているが、初級・中級共に後続子音環境全体において日本語母語話者より持続時間が短い傾向が強かった。韓国語の音韻体系を応用した指導法による指導と練習後の発音テスト結果は、学習者により多少違いはあるが、初級・中級両方とも促音の持続時間が日本語母語話者の持続時間に近接しており、効果が確認できた。しかし、後続子音環境によって韓国人日本語学習者の持続時間が日本語母語話者より長くなる特徴が現れた。韓国語の音韻体系を応用した指導法の長所は韓国語を応用しているので韓国人学習者に理解面で速いと思われるが、その長所が逆に短所になる可能性がある。日本語と韓国語は似ているが、実際に音韻体系は違うということをまず、講師が意識して学習者の母語の音韻体系を理解した上で両言語の相違点を学習者に意識させることが重要であると思われる。
  • 2.

    止攝 之韻의 중고음에 대하여

    KIM DAE SUNG | 2012, (55) | pp.23~44 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    The aim of this study is to verify the validity of my reconstruction Zhi rhyme(之韻) [ əi] and [iəi] in Zhi rhyme group(止攝), using the literature on Sino-Korean, Manyō Kana or Japanese phonetic alphabet, Sino-Vietnamese and Sino-Tibetan. To sum up, the following grounds can be considered : (1) In fourth division all the initials in Zhi rhyme except apical sibilants that have something to do with Pre-Ancient Chinese are /이/ in Sino-Korean, whereas in third division especially velars and laryngeals are /의/. The fact that Sino-Korean has vowel /으/ of final /의/ in velars and laryngeals implies it had central vowel in Ancient Chinese. ; (2) In third division except velars that have the other /i/ or /ï/ in Manyō Kana, all the other initials are /i/ in Zhi rhyme, and in fourth division all the initials are /i/. However, in Pre-Ancient Chinese Manyō Kanas as 思里已 are /sö/·/rö/·/yö/, that is, the other /o/ or /ö/, which means that vowels in Zhi rhyme are strong and central [ə]. In Ancient Chinese the weakening of [ə] in [ əi] and [iəi] may be suitable for /ï/. ; (3) In Sino-Vietnamese and Sino-Tibetan the third and fourth divisions are rendered as /i/ in all the initials except dentals’s [ɯ] in Sino-Vietnamese. The fact tells us two assumptions: vowel might be weak and ending [i]. In Sino-Vietnamese we can trace the vowel [ə] in Zhi rhyme that may be rendered in Pre-Ancient Chinese.
  • 3.

    韓国語のカタカナ表記について - 聞き取り調査による語中子音の傾向分析 -

    오가와 아케미 | 2012, (55) | pp.45~62 | number of Cited : 4
    Abstract PDF
     韓国語を日本語表記する場合、普通カタカナで表されるが、日本では現在、カタカナ表記にあたっての規準がない。カタカナ表記が困難な点は子音に関するもので、1)語頭の平音・激音・濃音 2)語尾のパッチム 3)語中の平音・激音・濃音と語中のパッチムの3点がある。このうち1)については音響音声学研究の分野で多く扱われ、聞き取りに関する研究も見られるが、カタカナ表記に関連するものはない。実際にカタカナ表記をした場合、1)と2)にも表記のゆれが散見されるが、最も多いのは3)である。本研究は、3)についての聞き取り調査を行い、韓国文教部から発行された「国語のカナ文字表記法」と比較しながら考察する。調査は、二拍の無意味語によるテスト語を録音し、音声データを聞いて最も近いと思われるカタカナを選択する形式で行った。調査の結果、語中の平音は濁音で、濃音は促音を伴う表記がほとんどだった。激音はパッチムがない場合は促音を伴うことが多かった。これらについては、音響音声学的研究の見解と一致する結果である。パッチムについては、従来ゆれの少ないㄷパッチムは「ッ」、ㅇ,ㄴパッチムは「ン」という回答がほとんどだった。ㄱパッチムは「ク」、ㅂパッチムは「プ」と表記されることもあるが、後続子音によっては促音「ッ」で表される。どのような条件下で促音と捉えられるか、特定は困難である。ㅁパッチムは「ム」より、全体的には「ン」を選択する回答のほうが多かった。ㄹパッチムは「ル」と表されることが多いが、「ル」以外の独特な表記も見られた。今回の調査により、語中の平音・濃音・激音、および語中のパッチムがカタカナでどのように表されるか、ある程度の傾向を示すことができた。「カナ文字表記法」との比較においては、異なる点もいくつか認められた。 韓国語のカタカナ表記の機会は増えつつあり、今後カタカナ表記の規準確立が必要となる。本研究は、それに向けての足がかりの一つとなるであろう。
  • 4.

    日韓同形異義漢語の意味の問題 - 韓国近代資料を中心に-

    윤석남 | 2012, (55) | pp.63~80 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    日韓両国(以降「両国」とする)には、同形漢語が数多く存在しており、意味においてほぼ同じように用いられている場合が多い。しかし、その同形漢語の中には、それぞれの国の事情により全く異なった意味で使用されているもの、また、両国で同義として使われながらも、異なった意味にも使われる場合がある漢語も存在している。本稿は、先行研究を踏まえながら韓国の近代資料を対象に日本語と韓国語に存在している同形漢語(字音語)1808語を抽出した。その中で、同形異義漢語と認められる35語を研究対象とした。 先ず、異義性の見られる漢語を漢字の持っている漢字一字一字の字義と語構造の面と多義派生からの分析を行った結果をここに示す。漢字一字一字の字義意識と語構造によるものとしては、①字別の意味及び語構成上の相違によるもの、②語構成の相違によるもの、③単純語の意味によって異義が生じていると考えられる。また、多義派生の原因からは、①本義からの転義による相違、②本義からの比喩的な意味による相違があげられる。この結果は、近代資料から得られた35語の少ない同形異義漢語を対象に得られた結果であり、 すべての同形異義漢語に当てはまるものではないようにと思われる。従って、今後研究を行なっていくうえで、より分類方法の検討が必要であり、多くの同形異義漢語を調査対象とし、歴史的、文化的な要因など、さまざまな方向から語別的な研究により、より明確な要因分析できると考えられる。
  • 5.

    「視聴覚日本語」におけるシャドーイング法の実践研究 - 初級レベルの学習者を対象に-

    Choi jinhui | 2012, (55) | pp.81~94 | number of Cited : 3
    Abstract PDF
     本研究は初級レベルの視聴覚日本語の授業においてシャドーイング練習を実施し、その効果を検討した。単語テストは事前と事後で有意差があり、シャドーイングの効果が認められた。シャドーイングは練習していくうちに単語を覚えられるようになる可能性があると考えられる。しかし、聴解テストと文法テストを行った結果、事前と事後で有意差があったが、事後のほうが事前より正解率が低かった。聴解能力と文法能力は伸びていないようである。事後のほうが事前より文法項目の難易度が高くなっていることが原因でシャドーイング練習の効果が認められなかったと考えられる。今回はシャドーイングによる文法の内在化は認められなかったといえる。 そこで、シャドーイング練習を行った文法項目とシャドーイング練習を行っていない文法項目を比較してみると、シャドーイング練習を行った項目の誤用率が低く、シャドーイング練習の効果があると期待される。文法テストにおいて、シャドーイング練習に用いた文法項目の中で、「の」が最も誤用数が少なかった。聴解テストにおいて、シャドーイング練習項目のうち、最も誤用数が少なかったのは「すみません」「なんじ」「しがつ」「おさきに」などである。 しかし、会話の授業の文法項目「の」は誤用数が多かった。特に、会話の授業で用いた長音の場合は誤用数が多かったが、シャドーイング練習によって誤用数が若干少なくなる効果があったと推測される。
  • 6.

    刊本類『交隣須知』에 의한 韓日近代語의 通時的研究 - 日本語의 文末表現을 중심으로 -

    Pyon, Moo-Jin | 2012, (55) | pp.95~116 | number of Cited : 3
    Abstract PDF
    『交隣須知』の写本類はもちろんそれの伝統を引く初刊本においても、程度の差はあるにしても、韓国語文を直訳する形でなされた日本語の対訳文が中心であった。その結果、初刊本の日本語はどちらかというと文語調で、当時の生の言葉を反映するという言語の時代性からはやや距離があった。その反省から校訂本では積極的に当時の口語を取り入れる形で校訂が行われたものと見られる。校訂者の前間氏らが日本語文を「意訳」した所以であろうが、『交隣須知』の日本語にはまた韓国語の干渉、言い換えれば、韓国語との対訳の体裁から影響を受けやすい性質、つまり「対訳性」をも考慮の対象になると考えている。このような事情から、『交隣須知』なる書の、特に刊本類を両国語の史的研究資料として活用するためには校訂本の存在は必須的である。本稿では、校訂本の存在から、初刊本の日本語が言語の時代性や保守性より韓国語との対訳性を優先するという言語史的な背景を確認することができた。『交隣須知』を初めとした朝鮮資料の通時的研究は、このような両国語の時代性と保守性そして対訳性が総合的に検討されてはじめて研究の客観性を高め得るものと思われる。
  • 7.

    단절된 일본문학연구의 계보- 『만엽집(万葉集)』을 중심으로 -

    Park Sanghyun | 2012, (55) | pp.117~136 | number of Cited : 3
    Abstract PDF
    2011年3月11日に發生した「東日本大震災」とそれによる津波の被害は甚だ大きかった。そして、その影響は日本だけにとどまらず、隣の國韓國にも及んだ。韓國での日本語敎育の現場を直擊してしまったのである。すなわち、日本語學校での受講生が急激に減り、それと同時に、大學では日本語や日本文學及び日本文化に關する授業の閉講が相次いだ。一言で言えば、韓國での日本語敎育を含めた日本學敎育は、今大きな危機に直面していると言えよう。 韓國での日本學敎育があまりにも急激に危機に落ちてしまったことは、實は韓國での日本學敎育の「体力」がよくなかったことを示してくれる。まさにこの時、韓國での近代學問としての日本學の系譜をたどってみることは、「大轉換期」を乘り越える一つの實踐になるであろう。よって、私は本稿ではまず、日本學硏究の中で韓國での日本文學硏究の系譜を『万葉集』硏究史の檢討を通して具体的に考察してみた。敎育と硏究は密接にかかわっているからである。その結果は以下の通りだ。まず、韓國での近代アカデミズムとしての日本文學硏究の系譜は、多くの日本文學硏究者の考えとは異なり、終戰(=光復)後開設された韓國外國語大學の日本語科と國際大學の日語日文科(=主に日本語と日本文學を敎える學科)から始まったのではなかった。植民地時代(=日帝强占期)の京城帝國大學「國文學」(=日本文學)講座から始まったのである。つぎに、韓國での日本文學硏究の系譜が植民地時代の京城帝國大學「國文學」(=日本文學)講座から始まったということが意味していることは次のようである。京城帝國大學の法文學部に設置された朝鮮文學(=韓國文學)講座、支那文學(=中國文學)講座、外國文學(=英文學)講座で行われた硏究成果は、終戰後ソウル大學をはじめ、主な大學で綿綿と續いた。言い換えれば、韓國文學硏究、中國文學硏究、英文學硏究の學的系譜は自然につながったものの、「國文學」(=日本文學)硏究の系譜は終戰とともに「斷絶」され、私たちの記憶から消えてしまった。つまり、植民地時代の日本文學に關する學問的「蓄積」を生かすことができなかったのである。「斷絶された日本文學硏究の系譜」、それが韓國での日本文學硏究の大きな特徵であった。そして、その特徵が敎育の現場にも影響を及ぼし、日本學硏究の「体力」を弱くした一原因になったと考えられる。
  • 8.

    『更級日記』の物詣で - 挫折した「女の夢」-

    SOONBOON CHEONG | 2012, (55) | pp.137~154 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    『更級日記』には、夢見る少女時代の上総国生活から、人に訪われぬ姥捨ての身を嘆くに至るまでの生涯の軌跡が描かれているが、中でも、作者孝標女が見ていた夢と深い関わりのある物詣では、『更級日記』の中でも多くの分量を占め、「女の一生」の脈絡を支える一大要素となっている。 平安時代には、死後の極楽往生を願う浄土教が流行する一方で、道から外れたものとして「狂言綺語」と呼ばれた物語も流行した。そのような時代的な雰囲気を背景に、『更級日記』は、幼い頃物語に夢と憧れを持ち続けた作者が、厳しい現実に挫折し、物詣でによって信仰(浄土教)の世界に救いを求めようとする過程をよく示している。 『更級日記』において物詣では、総八回行われるが、結婚後本格的に行われた石山詣でには、父孝標を亡くした作者が、自分自身を深く反省し、この年に生まれたと思われる第一子を抱えて、ひたすら仏にすがろうとする様子が看取される。そして、この石山詣でで得られた吉兆の夢に作者は再び期待を抱く。大嘗会の御禊の日に敢行した初瀬詣ででは、夢の中で初瀬の観音の化身と思しき女性が現れ、作者に内裏にいるべきであると告げる。これは、二人目の子を出産したこともあり、皇子や皇女の乳母になって宮中に勤めることを望んでいた作者に大きな希望を与えるに充分であった。その後も、夢の啓示の有効性を保持しその実現を祈るものとしての物詣でが続くが、作者五十一歳の時、突如おとずれた夫の死は、作者の夢や希望のすべてを無力化する。すなわち、夫の死は、作者自ら択びとった妥協の無惨な敗北だったのである。物詣では、結婚しても相変わらず宮中に憧れを持ち続けた作者にとって、皇子や皇女の乳母になる夢を持たせた媒介体であったが、しかしそこで得られた夢告は何も当たらず高貴な人の乳母になれずじまいで終わるのである。
  • 9.

    나쓰메 소세키(夏目漱石)와 李御寧이 추구한 패러독스의 세계 -『나는 고양이로소이다』『풀베개』『가위바위보 문명론』을 중심으로 -

    강현모 | 2012, (55) | pp.155~174 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    宇宙の自然界は 陰と 陽、昼と夜、夏と冬、明と暗が反轉しながら絶えずにくりかえして循環する。三つ巴のような図柄の構造に圓を描きながら循環するジャンケンのルールは、自然界と同じ仕組みになっている。これは易の原理のような物で東洋思想の根幹になっている陰陽思想の轉であり、パラドックスの世界である。李御寧が『ジャンケン文明論』で「21世紀はジャンケンの世紀である」と定義しているのは自然界の原理が內在しているジャンケン·コードこそドッシング·コインのバイナリー·コードが招來した両極化と極端の時代、文明衝突の時代を飛び越える和合と共存、そして融合の時代へ向かうべきの新しいパラダイムだという確信の為である。夏目漱石はもはや100年も前に現代文明の限界を認識していながら、このような現代文明の矛盾を解決する方法論として逆說的な思考とパラドックスの世界を追求していた。宇宙の自然界は陰と陽と對立しながらも、それを超越して相互の補完的の機能を持つ非對稱的な變化、いわゆる對立と依存という両義性を同時に孕んだ矛盾の世界で、その矛盾はパラドックスの世界でだけ解決出来ないことだからである。100年前、激動の時代を生きていった日本の知識人である漱石と、その時代よりもっとも多難な複雑を極める100年後のこの時代に生きている韓國の知識人である李御寧、その二人が追求しながら志向している世界は決して異なってはいない。ただ、李御寧が人類の文明的なコードという巨大談論を通じて力説しているのに対して、漱石は巨大な宇宙の原理を小宇宙の人間の心の内に盛込んでいたという点が異なっているだけである。西洋文明によって招來された極端の時代を終熄し、對立と葛藤を解決するための漱石と李御寧とが提示する解法は、他の一方を排除する排他的であり、偏向的な西洋の唯一の思考でなく包容力を持て共にする共存と寬容の包括性を追求する東洋の陰陽思想のものだと確信することができる。對立と葛藤で點綴された極端の時代は未だに終わっていない。彼ら二人が追求していた寬容と共存、そして存在論でなくて關係論からの逆說的な反轉の世界をより一層切実に願うのもその故である。
  • 10.

    谷崎潤一郎의『少年』論 -人稱과 스쿠비즘을 중심으로-

    김상원 | 2012, (55) | pp.175~188 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
     本稿では谷崎潤一郎の初期小説の一つである『少年』を人称の問題と関連して考察してみた。谷崎の1人称体小説は人称と文体が完成された時期である関西への移住以後に多数の作品が発表されたが、『少年』は初期に発表された小説であるにもかかわらず、彼の初期の作品のなかで完成度の高い作品として評価されている。本稿ではそのような点に着目して、『少年を』人称とスくビズム様相を中心に考察してみた。 その結果として、『少年』が1人称体の視点を必要としたのはスくビズム様相に基づいた心理的快楽を極大化するためであったのが分かった。そして、それはスくビズムの5類型の中で、<観念的下位>、<観念的下部B>、<肉体的下部>に属するのが分かった。しかし、作品中の「私」は作者、或は第3者を連想させる仮象の人物と完全に分離された独立の個体ではなかったという点では1人称体小説としての失敗作とも言えよう。 日本の作家たちの中で、谷崎ほど語りと文体のテーマの探求にふさわしい作家はいない。そのような意味で谷崎の初期作品に関連して人称を中心に考察してみたという点において本稿の意義があると思う。
  • 11.

    미야모토 유리코의 『한 송이 꽃(一本の花)』론

    Park, You-Mee | 2012, (55) | pp.189~206 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    『一本の花』は宮本百合子にとって、作家生活の前半期のピリオドとなった作品である。作家として深い疑いを抱きだした百合子が『一本の花』を書いた後、ソビエトへ旅立ち、それからプロレタリア作家へ転換するようになるからである。十七歳の時、日本社会の悲惨な農村の現実を描いた人道主議作家として登場した百合子は、最初から人間らしい生き方を追求してきた作家であり、『一本の花』にもこのような姿勢がよく見える。本稿はこの点に着目し、人間らしく生きるために欠かせないものとして提示されている「生存の尖端」の意味に注目した。『一本の花』には、官能の目覚めによる主人公の内面の動揺と矛盾ある社会を見つめる視線という、二つの異なる位相のテマがあるといわれてきた。本稿では主人公のセクシュアリティと社会の一員としてどう生きていくかを別の問題ではなく、統一した一つの問題として捉え、その解釈を試みた。其の結果、自分の内面と社会を見つめ、朝子が辿着いた「生存の尖端」とは真の人間として成長するに必要な真の愛であることが分かった。男女の区別を越えた人間への追求は作家宮本百合子の指向、そのものであるといえるだろう。
  • 12.

    今村昌平의 『人間蒸發』

    Ryu Jae-Yeon | 2012, (55) | pp.207~224 | number of Cited : 0
    Abstract PDF
    今村昌平監督の映画『人間蒸発』は失踪した一人の男を探す過程を描いたドキュメンタリー映画である。ここで「蒸発」とは1960年代中頃の経済の好況期の時、平凡な日常を営んでいた人間がいきなり行方不明になってしまう現象のことを言っている。映画は蒸発している大島裁と言う男の婚約者である早川佳江と映画監督の今村昌平とスタッフとが大島の足取りを追うことから始まる。當時日本政府は六万人を越える失踪者探しに積極的に加わろうとしていなかった。時は所得倍増政策による経済成長の最中であり、失踪している者も社会の主流から外れている者ばかりである。失踪者の家族は警察という国家の制度の力を借りるのではなく、占師による呪術に頼る。前近代的に見える、そのような仕来りをカメラはじっと見つめているだけである。早川佳江と映画のスタッフは大島の家族や職場や仲間と取引先を訪ね、彼が失踪する前の足取りを徹底的に調べる。そして調べの過程で失踪している人間の真の姿がだんだん明らかになってくる。映画はここで失踪者探しという目的から外れ、一人の人間の裸の姿を探る方向へ廻る。それは大雑把に言うと、欲望に充実している人間であり、また本能に動かされている人間であるが、これこそ今村が映画人生で死ぬまで撮ろうと決意した対象であることが分かる。一方、今村は失踪者である大島探しの失敗を予見し、彼の婚約者である佳江の内面の探索を図るのだが、もう、彼女は他者とカメラを意識して俳優になってしまう。本物の佳江でない別人になったのである。不在の人間は本當の姿を現したが、存在している人間は自分を隠しているのである。スタッフは存在と不在の逆転という案外の事態に直面する。困っているスタッフに今度は大島と佳江の姉であるサヨとの関係が浮かび上がり、映画はまた新しい局面に向かう。大島の周辺の証言によると、大島とサヨは恋人同士であることに間違いない。しかし佳江と証人まで加わって二人の関係を追及し続けるのだが、サヨはまったく認めようとしない。映画は真実を取り囲んだ攻防戦となる。攻防戦が激しくなっているとき、いきなり今村監督がセットを飛ばせるよう命令を下す。真実の真偽も明らかになっていないまま争いは終わる。そして残ったのは、攻防戦で自分を守るため相手の攻撃から身を堅く守りつづけている裸の人間の姿のサヨである。映画はこの我執と執念深い裸の人間の姿こそ真実ではないかと、結論をつけている。そして最後には「映画は終りだ。しかし現実は終わらない」と言う今村の言葉とともに終わる。失踪(蒸発)した一人の人間を探すことから始まったこのドキュメンタリーは、何回かの方向を変えながら意外なところに辿り着く。そしてその辿り着いたところには今村が映像で表現し続けてきた、いわゆる「ウジ」の一つの典型が現れる。『人間蒸発』は蒸発している人間の記録でなく、このウジの記録であることがわかる。
  • 13.

  • 14.

    독도문제의 「발생시점・위치・크기・속도」의 편견에 관한 연구

    Choi Jang-Keun | 2012, (55) | pp.245~262 | number of Cited : 1
    Abstract PDF
    独島は鬱陵島から見えるところにある。鬱陵島には朝鮮時代の前期と中期および後期を除き、古代時代、高麗時代、朝鮮末期から現在にまで韓国人が住んでいる。鬱陵島の人は独島を一つの生活文化領域として扱ってきた。このような理由で独島は韓国領土としての歴史的根源をもっていて、現在それを基にして韓国が実効的に管理している歴史的にも国際的にも韓国領土である。しかし日本はこのような独島に対して領有権を主張している。日本が領有権を主張する根源はどこにあったのか。それは韓国領土としての領土的根源を否定することから始まる。その方法は現在の視点から過去の歴史根源を否定したり、日本領土であることを前提にして韓国領土としての領土的根源を否定した。具体的にみると、第1に、現在の視点から過去の歴史的根源を否定するものとしては、古地図・古文献において島の大きさや位置や形などの解釈、島の価値について時代的にそれぞれの価値があるが、それを無視して日本が領土的措置をとった時期のみを中心として海驢漁業をしたという経済的価値のみを基準にして日本領土であるということ、島の名称についても時代的背景、発見者によって違う名称が命名された。にもかかわらず、現在の名称である独島ではないものはすべて韓国領土としての根源ではないということである。