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pISSN : 1229-6309

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2008, Vol., No.25

  • 1.

    紀海音의 世話浄瑠璃에 나타나는 ラ行下二段活用의 四段化現象에 관한 考察 -江戸中期 上方語資料와 비교를 중심으로-

    김용균 | 2008, (25) | pp.7~26 | number of Cited : 2
    Abstract
    本稿では、江戸中期(宝永~享保期)の上方語資料の紀海音世話浄瑠璃に現われる敬語ラ行下二段活用(「おつしやるる」 「くださるる」 「しやるる」 「なさるる」 「めさるる」)の四段化現象について考察してみた。特に、全体的傾向を中心に紀海音世話浄瑠璃7種(『椀久末松山』(1708) 『難波橋心中』(1710) 『袂の白しぼり』(1710?) 『傾城三度笠』(1713)『三勝半七二十五年忌』(1719)『心中二ッ腹帯』(1722)『八百屋お七』(1731?)の四段化の実態の分析結果に基づいて、当時の中期上方語資料の版本狂言記及び上方絵入狂言本、それから同種資料の近松世話浄瑠璃の傾向との比較を中心に考察するとともに、遅速差の原因についても検討してみた。その結果、幾つかの特徴的事実が明らかにされたが、四段化の全体的傾向を中心にまとめると、大略次のようである。 ①単語別に見ると、「しやるる」、「おつしやるる」、「くださるる」、「めさるる」、 「なさるる」の順に四段化が進んでいる。 ②活用形別に見ると、命令形、終止・連体形、連用形、未然形の順に四段化が進んでいる。 ③位相的な面から見ると、男性語と女性語間による四段化の遅速差は見られない。 ④紀海音世話浄瑠璃の四段化率は同種資料の近松世話浄瑠璃の四段化率とは殆んど同じであるが、版本狂言記及び上方絵入狂言本の四段化率より高い。 つまり、このような考察を通して紀海音世話浄瑠璃に現われるラ行下二段活用の四段化は単語、活用形によって遅速差を見せながら進んだということと、位相による遅速差が見られないということが確認できた。さらに、このような結果を通して版本狂言記及び上方絵入狂言本、それから同種資料の近松世話浄瑠璃の傾向との共通点と相違点が分かるようになった。
  • 2.

    「わけだ」文の意味について

    MO SE JONG | 송수진 | 2008, (25) | pp.27~44 | number of Cited : 1
    Abstract
    「わけだ」の意味と名詞「わけ」の意味の関連性について、先行研究の多くは、「わけだ」を独立したものと理解し、名詞「わけ」とは関係ないものと捉えている。しかし、本稿では「わけだ」は「わけ」+「だ」の構造で、名詞「わけ」の意味を実現しているものと考える。「わけだ」は「わけ」と「だ」の結合であるので、「わけ」の意味に「わけだ」文が表す抽象的な意味を付け加え、それを名詞「わけ」の意味と規定したい。 「わけだ」文が表す意味は多様であるが、本稿では先行研究を踏まえ、「わけだ」文の意味を四つに分類する。 「わけだ」文には、ある前提のPから推論すれば当然Qという帰結になるということを表すものがある。Qは原因・理由、あるいは結果を表す。帰結として捉えられる「わけだ」文の意味を「わけだ」文の意味1と規定する。 「わけだ」文には、PとQの関係が「納得」を表すものがあり、これを「わけだ」文の意味2に規定する。「納得」とは、納得する言語表現なのか、それとも納得した後の話し手の解釈や評価のような表現なのか、その意味が定かではない。「わけだ」文の意味2は、単純な結果提示ではなく、結果などの内容を話し手の立場で頷いたり納得したりする態度を表すものであると考える。 「わけだ」文には前の文を言い換えるか、あるいは捉え直すかの意味として捉えられるものもあり、これを「わけだ」文の意味3に規定する。この、前の文の言い換え、捉え直しという捉え方は、「結果」の意味にも捉えられがちである。「わけだ」の意味3は単なる「言い換え・捉え直し」ではなく、「結果」から再解釈したもの、つまり、結果論的な話を色々な角度から再解釈したものであると捉える方がより自然でろう。結局「わけだ」の意味3は、結果から推論される再解釈、結果の再解釈と言うべきものであると考える。 「わけだ」文にはその意味が明らかでないものがあり、先行研究ではこれらを派生用法であると捉えている。これらを仮に「わけだ」文の意味4に規定するが、この「わけだ」文の意味4は領域が広く、正確な位置づけにはより深い考察が必要であり、これについては今後の課題にしたい。
  • 3.

    視点と談話の展開に関するケース·スタディ -日本語と韓国語データの比較から-

    Park, Yang-sun | 2008, (25) | pp.45~66 | number of Cited : 0
    Abstract
    日本語と韓国語の談話展開においては、それぞれ視点を固定するのか、自由に移動するのかによって異なる。日本語で談話を展開する際には、視点を固定しようとする意識が働き、はじめて受身文·やりもらい表現·~(て)行く/来るという要素が導入することになる。しかし、先行研究では、日本語学習者の場合、「視点固定の原則」の習得が難しく、受身文·やりもらい表現の回避·非用などが問題として指摘された。  本研究では、滞日期間の異なる5人のデータをもとに、それぞれの言語において視点の原則に適した言語行動をとっているのか、その実態を分析した。その結果、滞日期間の長さによって両言語の能力の差は著しく、それぞれの発話数と文法事項のエラーから文法能力の程度、談話構成能力による表現の自然さ、視点の捉え方を比較することができた。特徴的なのは、日本生まれで滞日期間16年の生徒より、滞日期間11年の生徒の方が日本語の視点固定の原則にもっとも近い談話展開を見せたということである。このことから、同じ滞日という状況でも民族学校での在学期間によって韓国語との接触が多くなると、日本語の視点の原則に従うことに支障が出てくると考えられる。日本語の視点固定の原則は高い言語能力を要求するため、滞日期間の短い生徒はこれに従うことが難しく、高い日本語能力を持っていても韓国語の影響を受けると、日本語の視点の原則に従うより、韓国語文の構造において安定的な能動文が多くなる。特に、滞日期間2年の生徒は、韓国語を使用する場合はほとんど韓国語の視点による談話展開を見せており、日本語でも能動文で談話を展開していた。
  • 4.

    慣用表現の統語構造上の分類と特徴 -日韓両国語の対照分析を中心に-

    송서천 | 2008, (25) | pp.67~90 | number of Cited : 0
    Abstract
    本稿は、慣用表現の持つ文化との深い関りを考えながら日韓の慣用表現の特徴を考察することに目的がある。そのため、慣用表現の統語構造上の分類において、広義の取り方から実際の用例を取り上げ韓国語の対訳との対照分析を行った。 まず「後項固定のタイプ」の打消し形の慣用表現は、その韓国語の対訳においても打消しの形がよく表れる傾向が見られるのに対し、授受・使役の慣用表現は、その対訳において授受・使役という形式上の特徴が失われがちである。「外来語と組み合わされたタイプ」は、慣用表現をなしている構成語彙の語彙的な特徴に注目したもので、その原語に対し日本語の方は原語を日本語の発音習慣に合わせ、日本語化した外来語を積極的に受け入れていることが顕著である。反面、韓国語の場合は、外来語が慣用表現の構成語彙として働く場合、原語の意味的な面に重点を置き、漢語をよく用いる傾向が見られる。
  • 5.

    Language Use in Multi-Cultural Households -Focused on Intermarried Households Between Korean and Japanese-

    한영옥 | 2008, (25) | pp.91~118 | number of Cited : 3
    Abstract
    This research focuses on the language-use of the family members from the multicultural household that consist of Japanese wife and Korean husband residing in Seoul, Kyoenggi, and Chuncheon. The collected data includes the language-use of the wife, the husband, and the children as well as the entire household. Such data is analyzed according to the wife’s age, level of education, and number of years of residence in Korea. As a result, the research has concluded that the language-use of each household differ more by the age rather than the level of education. Although the majority of the wives in all ages mainly speak both Korean and Japanese, the use of all three languages, Korean, Japanese and English, has increased as their education level increased. Furthermore, while the language-use of the husbands differs by the age, the use of two or three languages has increased as the education level of their wives increased. Lastly, as the majority of the children in all ages mainly speak both Korean and Japanese, the use of two or three languages has increased as the education level of their mothers increased. In conclusion, there exists a correlation between the mother’s education level and the children’s language-use. Moreover, the use of both Korean and Japanese by the children has increased as their length of residence in Korea increased. Therefore, another correlation exists between the length of residence in Korea and the children’s language-use.
  • 6.

    La traduction yourcenarienne de Cinq Nô modernes de Mishima Yukio

    구다와라 야스코 | 2008, (25) | pp.119~140 | number of Cited : 0
    Abstract
    Marguerite Yourcenar fait prevue d’un grand talent de traductrice, malgré la barrière de la langue. Le désir de traduire Cinq Nô modernes de Mishima Yukio devrait être un des derniers buts de sa longue carrière littéraire. Dans cet article, nous avons recensé les remaniements et les caractéristiques de la traduction de Yourcenar en la comparant à la traduction anglaise de Donald Keene et à celle de Georges Bonmarchand parue 15 ans plus tôt. Yourcenar a bien choisi les mots et les expressions en respectant les textes originaux du Nô, l'art littéraire japonais classique, qui l’ont infiniment attiré toute sa vie. Néanmoins elle vise également l’effet nouveau et moderne comme Mishima en y ajoutant un soin particulier surtout aux personnages féminins par son regard de femme occidentale. Avec ce travail, Yourcenar nous montre le bonheur d’ un écrivain de traduire l’ ouvrage préféré de son autreur favori. Et nous les lecteurs aussi, nous pouvons participer à la liaison heureuse de cette rencontre de grands génis.
  • 7.

    모자의 대결 장면으로 읽는 가족 표상 -『호토토기스(不如帰)』의 ‘이에(家)’-

    kwon, Junghee | 2008, (25) | pp.141~158 | number of Cited : 2
    Abstract
    本稿は徳富蘆花の『不如帰』における「イエ(家)」の意味を考察することに目的がある。『不如帰』における「イエ(家)」がどのような意味を持つのかという問題が最も核心的に現われた個所は、母親と武男の離婚をめぐる口論の場面である。そこで、本稿では、母親と武男の論争を辿りながら、『不如帰』における「イエ(家)」の論理がどのように構成されたのかを分析した。その結果、明治維新の功労によって成された川島家の成立自体、家が国家に包摂されるかたちの「イエ(家)」の論理による構成であることが明らかにされた。さらに、離婚をめぐっての母親と武男の間の口論は、本来孕むはずの国家と家の対立が「妻が大事か父母が大事か」という嫁と姑をめぐる二者の選択の問題に置換されることによって、家と国家の対立が隠蔽されると共に、離婚が武男の自由意思による選択だという幻想が産み出される装置となる。こうした構図を通じて、愛と家の対立というメロドラマの構造が浮彫りにされるのでる。
  • 8.

    遠藤周作の『深い河』論 —心理分析への試み—

    eunyoung kim | 2008, (25) | pp.159~182 | number of Cited : 0
    Abstract
    本論文は遠藤周作の最後の純文学作品である『深い河』の主人公、成瀬美津子の心理分析を試みたものである。第一章ではそれぞれ対極を成している大津と美津子の関係を、美津子の心理推移にしたがって探ってみた。その結果、大津に対する美津子の反発が実は自らのコンプレックスを大津に投影した挙げ句の、自我とコンプレックスの衝突により発生した彼女自身の心理内部的な問題であったことが分かった。第二章では大津と美津子が相反する生き方を見せてはいるが、他人を意識し、他人に自分自身を合わせようとする心的動因を持っていたことと、愛に関する限り、しつこいと思われるほどの強い責任感の持ち主であった点で、背中合わせの人物たちであることを明らかにした。最後に第三章では『深い河』を通して悪の問題を真剣に取り込もうとした作家遠藤の意図が挫折してしまった原因を考察してみた。遠藤は美津子をありとあらゆる陰性的な性向の持ち主として造形しながらも、結局彼自身が思っていた「絶対悪」の要素──たとえば、フロイトのタナトスやフロムのネクロフィリアのような傾向を彼女の内部にまでつらぬき通とおすことには失敗してしまった。おそらく「絶対悪」の世界を表象化したいという目論みは「人間」遠藤にはあまりにも手に負えない課題であったからであろう。
  • 9.

    춘원(春園)과 소세키(潄石) 초기소설에 나타난 여성상 비교고찰

    Yun Hye Young | 2008, (25) | pp.183~202 | number of Cited : 4
    Abstract
    本稿では、『無情』と『虞美人草』との女性描写と女性意識について分析し、相反する女性造形の原因について考えてみた。 まず『虞美人草』には漱石の描いた女性の中では珍しく丙午生まれで死を迎える藤尾が登場する。藤尾は内·外的に近代的な女性としての面貌を持っている。一方、恩人の娘であり「可憐」な花のような過去の女性である小夜子が登場する。二人の間で悩んだ小野は結局小夜子を選ぶがこれが愛情のない「義理」と「責任」による選択であった。すなわち、藤尾と小夜子は文明と過去を象徴する観念が作り上げた心理的な変化のない人形のようなキャラクターであると言えよう。また「尊い女」·「誠の女」として描かれる糸子は暗い結婚観を持っている甲野と結婚する。漱石は小野と小夜子、甲野と糸子の結合を通して近代文明社会の中で生きている人間の宿命的な悲劇をも暗示している。 『無情』には財産家の一人娘である善馨(ソンヒョン)と恩師の娘で過去の女性である英彩(ヨンチェ)が描かれている。善馨は外的には近代的な女性に見えるが、父の言葉に従って婚約するのを見ると過渡期を代表する女性である。しかし以降愛に目覚めていく。暗澹たる当時の朝鮮を象徴している英彩も自殺しようとするが汽車の中で偶然出会った新しい女性のピョンウクの旧道徳に対する批判を聞いて新しい生活のために留学を決心する。 こうした差は相違する時代背景と中年と青年という執筆年齢の違い、恋愛経験によるものであろう。即ち、李光洙は無知で力のない朝鮮の人たちを教育させ、文明国へと導いていく発展的な女性像·青年像を提示している。一方、漱石は「道徳心」を鼓吹して外面と内面が調和する近代化を追求したのであり、このような意図が女性を通して披瀝されているのである。
  • 10.

    무라카미 하루키(村上春樹)의 『스푸트니크의 연인(スプートニクの恋人)』론-‘스미레’와 ‘뮤’의 사랑을 중심으로-

    LeeJaeSung | Hyunjin Oh | 2008, (25) | pp.203~220 | number of Cited : 0
    Abstract
    村上春樹の作品『スプートニクの恋人』は 1999年に発表された中篇小説として、春樹文学の特徴中の一つである<二つの世界>を直接的に見せてくれる作品だと言える。  作品の中に登場する私‘僕’は以前までの春樹文学の中に現われた主人公ではない作品を展開させて行く話し手に登場している。作品の中で重要な人物は愛に落ちる二人の女性人物である‘ミュウ’と‘スミレ’と見られる。二人の女性は一般的な男女の愛ではない同性の間の愛に落ちるようになってこの研究はその愛を同性愛で定義する。14年前に経験した‘喪失感’は二人がお互いに愛に落ちるようになるきっかけと作用する。   またお母さんを早い失った‘スミレ’は‘ミュウ’に母みたいな感情を感じて、‘ミュウ’も 14年前の事で性関係をできなくて子供はいないが妙な母性愛を感じるようになるのだ。  お互いに対する感情は一般的な愛で心に刻んでおくことができないし、今後とも見た研究にもっと心血を傾けて研究しようとする。そうするために二人の女性人物の細細しい研究と話し手である‘僕’の研究も非常に重要だと考えられるところだ。
  • 11.

    八代集 四季歌에 나타난 ‘새벽’ 표현 연구 -あかつき·しののめ·あけぼの·あさぼらけ를 중심으로-

    Lim Chan Soo | 안신영 | 2008, (25) | pp.221~240 | number of Cited : 0
    Abstract
    和歌において、夜明け頃を意味する語彙は<暁>、<東雲>、<曙>、<朝ぼらけ>、<有明>、<明け方>などがある。これらの語彙は夜明け頃という共通的な意味を持ちながら、その中に微細な時間差異を見せる。本稿はこの事実に基づき、八代集の四季歌に現れた<あかつき>、<しののめ>、<あけぼの>、<あさぼらけ>のイメージを探ってみることにする。  <あかつき>、<しののめ>、<あけぼの>、<あさぼらけ>が意味する時間は<あかつき → しののめ → あけぼの → あさぼらけ>のように流れて行く。特に、<あかつき>の場合、この語彙が表す時間帯は現代の「午前三時から日の出に近い時刻」と定義されていた。この事実は文学作品に表出されるイメージとも深い関わりを持つ。  まず、八代集の四季歌に現れた用例の分類を通して、平安時代の貴族は春の夜明け頃を歌う時、<あけぼの>は連想しても、<あかつき>は連想しなかったという仮説を立てることができた。また、夏歌の場合、「ホトトギスの鳴く声が聞こえてくる時間」というイメージは<あかつき>、<しののめ>、<あけぼの>共に持っていることがわかった。しかし、<あさぼらけ>は例外であった。一方、<あかつき>の用例に現れた<鐘の音>の場合、それが午前六時を知らせる音ということからすべて冬に歌われた歌だと推定することができよう。  <あかつき>の用例に現れた<ホトトギスの鳴く声>と<鐘の音>はすべて聴覚表現ということがわかるのである。したがって、本論では<あかつき>、<しののめ>、<あけぼの>、<あさぼらけ>の用例を聴覚表現だけではなく、他の感覚表現別に分類してみた。その結果、<あかつき>の用例には聴覚以外の感覚表現はたった一首も現れず、時間が<あかつき → しののめ → あけぼの → あさぼらけ>のように流れていくにつれ、「聴覚」による表現が「視覚」に移していくことがわかった。
  • 12.

    The cry to the desire and Raw representation which went to ruin -Ryunosuke Akutagawa 「A group of thief 」-

    정인문 | 2008, (25) | pp.241~270 | number of Cited : 0
    Abstract
    Another family and type the north they the thief group is unjust for a long time and it can be evaluated and with the relationship which is come and it can be good it cannot be evaluated it could not. The prevalence it entered to 1970's and it prosecuted an intelligence in the rain and with the beginning five one day five, there is prosecution of revaluation of the American bedspread hour height five back, it was published and this work was paid attention and again the researchers it started. That becomes the problem from this work, it dies with life of the appearance people which participate in the thief group heterosexuality and six love it is complicated and it is tied and. The report investigated a subject and that like this complicated many item grudge it is creating this subject which is tied, it did to sleep. From here the fact that becomes the problem is pure shout of the sibling child who surpasses a hatred and the heterosexuality against the woman who escapes common sense. But like this features by the cruelty one exclusion of the hitter with each other it confirms the love of for it is a spectacle, it does. The scene where with other with Ji the sibling is feeling the love of the mother to extreme cold of six love, also it is an idiot and Oh to the scene where the meat is displaying a motherhood the force is recorded and the beautiful expression comes to feel, it catches alive the mind of the individual field. The plot of the inspiration old woman of this old bones E with other with it of plot of the sibling changes is not a lot with Ji. Oh the plot of the meat is different but. It is because the embrace power of motherhood is coming to feel on these back. From structure of this work it sees and the hero Oh is the meat. When su the toe li with conclusion visualizing the reconciliation with Ji with other, the baby the van Oh the meat as the symbol was necessary to this text. She evil nye with is regarded from also the inside the company of the thieves sya was that ticket different mother of the place where it is a contrast existence with the king. It is an inherent idiot and Oh it is meat but sya it is one time existence where the woman who is a king it dies with toward is thin to compare and Oh the meat as the mother's womb existence toward remaking of the human being is remake existence. Oh the meat by becoming the mother all things it will be forgive and it will go.
  • 13.

    On the influence of the montage theory in Seishi Yamaguchi

    寺内伸介 | 2008, (25) | pp.271~286 | number of Cited : 0
    Abstract
    The montage theory was introduced to Japan in early period of Showa. Interest leaned on the montage theory very much in not only the world of the movie but also the world of the literature. Yamaguchi Seishi has begun to apply interest to a montage theory. In this article, I analyze his haiku theory and work. And I consider montage theoretical influence. As a result, I understood that Seishi felt a limit in conventional haiku expression. And he has begun to take in another new method of Haiku. When he established a new creation method, a montage theory performed an important function. In other words Seishi was going to exceed a limit of the haiku expression that he felt by applying a montage theory. And he cleared the new ground of the haiku creation.
  • 14.

    三島由紀夫의 작품에 나타난 남성像 -『금색(禁色)』의 인물구성을 중심으로-

    Ho Huh | 2008, (25) | pp.287~310 | number of Cited : 2
    Abstract
    文学的な出発期から早くも二元論的な両性対立の世界に深い関心を見せていた三島が、本格的にその構図を作品の中軸に据えたのが『禁色』である。『禁色』以前は両性対立というよりは、強力な母系社会とも言える女性的原理の下で、男性(肉体)に対する女性(精神)の一方的な支配が目立つばかりであった。それが一転して、この『禁色』では初めて男性側が女性たちに対して積極的に働きかけるようになり、やっと両性対立の世界らしい形が出来上がったのである。  三島は『仮面の告白』から二年も経たないうちに『禁色』に取りかかっている。『仮面の告白』と同じく同性愛をテーマにしていながら、自伝性の強い『仮面の告白』とは異なり、純粋なフィクションとして、遥かに自由かつ奔放な人間関係を見せる『禁色』には、『仮面の告白』には見られない近親相姦的な人間関係が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。つまり『仮面の告白』で自伝の形を借りて〈私〉の精神分析をおこなった三島は、今度は三人称で書いたフィクションの世界へ自己を埋没させようと試みたのである。エロティシズムを主調音にした初期の三島文学はこの『禁色』なしには完成されないのである。しかも、女性的原理に対する攻撃の姿勢を前面に持ち出した最初の作品として、その成敗の如何に拘わらず、『禁色』は三島文学において大事な節目になる作品と言えるのである。  本稿ではこのような『禁色』に登場する人物たちのうち、男性側だけに焦点を絞って、家族的な人物構成という観点から考察してみた。
  • 15.

    한일 기로(棄老)설화의 비교

    Kim Yongui | 2008, (25) | pp.311~332 | number of Cited : 3
    Abstract
    本稿は、韓国と日本に伝わる「棄老説話」についての比較研究である。韓国と日本に伝わる「棄老説話」は、親に対する孝行を強調する話であるという共通点が見られる。親に対する孝行を強調する話であるという性格においては、もともとこの説話の根源地である印度の説話、また中国の説話においてもほとんどかわらない。しかし、両国に伝わる「棄老説話」をいくつかの類型に分けて厳密に比較してみると、両国の話の間には、明確に分けられる特徴が確認される。本稿では、比較分析によって、およそ三つの特徴を明らかにした。  一つ目は、韓国の「棄老説話」の場合、どの類型の話にしても、親に対する孝行を強調する話として語られていることである。この点は、韓国の「棄老説話」に一貫している。これに比べて、日本の話の場合は、親に対する孝行を強調する一方、老人の知恵のはたらきで難問が解決されるという、いわゆる「難題型」のほうに強い関心がそそがれている。日本の「棄老説話」のほうに、もっと豊富に難題のモチーフが語られているのはこういう理由からであろう。  もう一つの特徴は、韓国の「棄老説話」には、いわゆる「老婆致富型」がほとんど見られないことである。韓国の説話には、姑と嫁の葛藤についての話が多く伝わっているにもかかわらず、姑と嫁の葛藤は「棄老説話」のモチーフとして語られなかった。その理由としては、「棄老説話」があまりにも「残忍な」話であったため、姑と嫁の葛藤のモチーフに結びつくことが許されなかったと考えられる。  三つめの特徴は、「棄老説話」の類型によって、話に登場する家族関係が決っていることである。この特徴は、両国の話に共通している。例えば「チゲ(もっこ)型」の場合、父親と息子が登場する話が多く見られる。また「枝折り型」の場合は、決まって母親と息子が登場する。この点については、「説話における家族関係」という視点からもっと深めていきたい。
  • 16.

    「라쿠고(落語)」에 나타난 웃음의 전개방식

    ParkJeonYull | 2008, (25) | pp.333~352 | number of Cited : 3
    Abstract
    話芸の一種である落語は、近世以来庶民の支持を得て作品や演出様式が確立されて、演者の系譜も拡大され、庶民自身の生活や庶民の目で見る武士の生活を素材にして身近な事件や日常的な話題を取り上げることで大衆的で親しいやすい芸能に発展した。 耳で聞き目で演技を見ながらその内容を想像し、笑いを醸し出す落語の歴史は笑いの方式の洗練化と演目蓄積の歴史であると言えよう。落語が説話や物語あるいは口誦文芸と区別する理由の一つがオチという特別な演出方式を持つという点である。特に作品の結末部に置かれるオチは反転の妙味に観客の反応が集中する大事な構成要素である。オチは作品ごとに多様な方式で展開されるので特定な基準を設定しない限り大変分類しにくいが、反転の方式や、締めくくる方式を基準にする分類も可能である。 一方、日本の落語は「お笑い産業」として現代文化産業の重要な領域を占めている。興行産業あるいはエンターテイメント産業の中で落語が占める割合や、マスコミに編成される落語プログラムの比重が他の古典芸能に比べて非常に高い。これは伝統文化をベースにし現代人の感情や日常生活が反映される落語に対する関心の現れであろう。 日本人の笑いの重要な方式である落語は、歴史的に幾多の笑いのトピック(topic)を蓄積しながらこれを土台(data-base)に日本的な話題、あるいは人間本性に迫る話題を多様に組み合わせ、見立て、あるいは変形するなどの方式で発展させたことに話芸としての特徴があると言えよう。
  • 17.

    「公正さ」は語られたか -「問われる戦時性暴力」からみる「放送の公正性」-

    안창현 | 2008, (25) | pp.353~380 | number of Cited : 0
    Abstract
    本稿の目的は、政治権力の圧力によって番組の改編が行われたとされる、いわゆる「NHK番組改変問題」を事例に日本における「放送の公正性」の実態を分析することにある。公正性はジャーナリズムの規範として見做され議論されてきたが、その実態においてはジャーナリストを規制する手段としても用いられている。本稿では、これを「アンビバレントなもの」としてとらえ、事例分析を通じ、その両義性を明らかにした。分析の結果、「慰安婦」問題を取り扱ったドキュメンタリー番組の編集過程で、NHKの経営陣は政治権力の圧力に屈し、公正性を理由に番組の改編を指示した。政治権力によって、「慰安婦」問題は合議領域から論争領域に打ち出されており、編集過程で機械的均衡を保つために、女性国際戦犯法廷についての肯定的な評価は縮小され、代わりに否定的な評価は増やされた。また、日本政府、日本軍、昭和天皇などの言葉を削除して責任者を不明にさせるなど隠蔽した。結論としては、放送の公共性はジャーナリストの自主性が保障されなければならないし、そのためには「内部的自由」の保障が必要だと考えられる。
  • 18.

    日本映画産業の好転とその傾向 -2000年~2007年の実写映画を中心に-

    이즈미 치하루 | 2008, (25) | pp.381~412 | number of Cited : 1
    Abstract
    1990년대 저조했던 일본영화시장에 있어서의 일본영화는 2000년에 들어서 회복의 기미를 보여줬다. 특히, 2005년 이후 실사영화의 성장은 두드러졌다. 2006년에는 일본영화의 흥행수입이 1,079억엔으로 영화시장에서 일본영화의 점유율은 53.2%가 되어 1985년 이래 21년 만에 외국영화를 앞질렀다. 이 시기 흥행 성적이 좋은 영화의 특징은 토호(東宝)에서 배급했고, 방송국이 제작을 주도하는 제작위원회방식(製作委員会方式)으로 제작된 영화였다. 이들 영화의 주 된 소재는 원작 시나리오나 인기TV드라마의 리메이크와 같은 지명도가 높은 것이었다. 또한 이 성공의 열쇠는 우선 메이저영화사, 특히 토호의 산업적 전략의 성공이라고 말 할 수 있다. 토호의 영상본부영화조정부(映像本部映画調整部)에서는 방송국에서 들어오는 기획을 취사선택하여 영화의 공개시기와 규모 등을 결정해 성공할 수 있는 전략을 세웠다. 제작위원회에는 메이저 영화사를 비롯하여 방송국, 광고회사, 출판사, 연예매니지먼트사, 음반제작사 등 여러 기업이 함께 투자하여 국내극장 배급수입은 물론 미디어믹스로 2차, 3차 수입이 기대되는 투자가치가 높은 비즈니스 기회를 얻게 되었다. 이렇듯 제작위원회가 좋은 성적으로 인정받게 되고, 영화는 투자가치가 있는 비즈니스 기회라는 인식이 높아지며 투자할 기업이 많아지면서 거액의 자본이 필요한 영화제작이 손쉬워지는 환경이 마련되었다. 하지만 한편으로는 영화가 작품이기 이전에 투자가치가 있는 상품이라고 인식되어, 성공한 작품을 역순으로 계산된 기획으로 획일화되기도 했다. 또 TV드라마와 영화 사이에서 리메이크를 되풀이 하여 시청자와 관객이 서로 교차되기도 했다. 더불어 확실한 흥행성적을 올려 리스크를 줄이기 위해 오리지날 시나리오보다 원작을 선호하였고, 개성 넘치는 영화감독보다 기술이 뛰어난 TV 프로듀서를 기용해 모두 비슷한 드라마의 스페셜버젼 같은 평범한 내용이 되어버렸다. 이런 경향 속에서 영화가 TV 드라마의 연장이 아닌 만큼 영화만의 특색을 지닌 작품이 아니면 언젠가는 관객들에게 외면 당 할 것이라는 우려가 일어났다. 평론가나 영화관계자가 선택한 「21세기 일본영화베스트 30(21世紀日本映画ベスト30)」에서 10억 엔 이상의 흥행성적을 낸 작품은 여섯 편에 불과하며, 이 중 20억 엔 이상의 흥행수입을 얻은 작품은 30위에 오른『무사의 체통(武士の一分)』단 한편 뿐이다. 좋은 작품라고 인식되는 영화와 흥행에 성공한 영화의 간극이 커진 것이다. 물론 이 영화들 중에는 토호배급작 5편, 쇼치쿠배급작 3편 등이 포함되어있지만 100년 역사를 자랑하는 메이저영화사로서는 자랑스럽지 못한 결과였다. 한편 독립계 영화회사는 TV방송국이 관여하지 않기 때문에 방송국의 정보코드 속에 휘말리지 않고 개성적인 감독을 기용하여 개성적인 작품 제작이 가능하였다. 그 결과 메이저영화사들이 놓치지 쉬운 소재나 기획을 수용해 『유레카(EUREKA ユリイカ)』,『아무도 모른다(誰も知らない)』,『언젠가 독서하는 날(いつか読書する日)』과 같은 영화관계자의 평가도 높고 해외영화제에 수상한 작품들을 배출하였다. 또한 시네콰논와 아스믹 에스 엔터테인먼트는 자금의 조달에 제작위원회가 아닌 펀드를 이용해 영화를 제작했다. 투자기업들의 합의의 장이 되어버린 제작위원회가 아니라 순수 투자인 시네마신탁 등을 이용함으로서 자유롭고 대담한 기획이 가능해졌고, 따라서 영화제작에 대한 크고 새로운 가능성이 전망된다. 영화는 작품성과 상업성을 겸비하는 작품이 이상적이다. 메이저회사는 경제적인 성공이라는 기준뿐만 아니라 영화만의 개성적인 테마선택과 내용으로 승부하는 자세가 필요하고, 독립영화사는 메이저회사와 다른 자본의 확보가 필수적이다. 더불어 영화에 대한 선정적인 선전이나 유혹에 흔들리지 않는 관객들의 질적인 향상도 영화산업의 발전을 위해 필수적일 것이다.