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豊臣秀吉의 冊封問題와 壬亂期의 講和交涉 : 정유재란의 원인을 중심으로

  • 중앙사론
  • 2012, (36), pp.253-288
  • Publisher : Institute for Historical Studies at Chung-Ang University
  • Research Area : Humanities > History

KIM MOON JA 1

1상명대학교

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ABSTRACT

本稿では壬辰倭亂期に行われた和議交渉の中で ‘豊臣秀吉の日本国王の册封問題’が丁酉再亂の勃發にどのような関係があるのかについて再検討をした。その結果、第一番に、日本で册封問題は将軍という政治․ 軍事の實權者が自分の必要と意志によって積極的に冊封を受け入れったり、または初めから斷絶した。つまり、日本にとって中國との冊封關係は外交的な選擇の問題であったのである。日本が歴代中國王朝と冊封關係を結んだ例は15回に過ぎない。ところが、朝鮮をはじめ中國と冊封を結んだ周邊の國々は中國大陸を支配する政治勢力と一応冊封關係を結めば、その王朝が滅亡する前までは引き続いて維持してきたのである。 二番目に、講和交涉に関する三國の立場を検討した結果, 朝鮮は初めから日本の交渉要求を受け入れられない条件の多かったため拒否した。日本軍の侵略を直接的に受けた當事國として朝鮮は講和交涉にはあくまでも反対する立場であった。戰勢が回復すると武力に日本軍を擊退しようとしたのである。しかし、戦争が追い込むに至ったては戰況と明の要求によって日明講和交渉に賛成せざるをえなかったのである。明の立場は1593年1月、平壤城を收復したものの、2月に碧蹄館で日本に大敗すると、日本と講和交渉を再開しながら戦争を早速に終結しようとした。機會のある度、明側は秀吉が明皇帝に赦罪する書を奉れば彼を日本國王に封じるという条件を提示しながら壓迫した。明朝廷では最初、日本の封貢に対して賛否があったものの、朝鮮側が封貢を奏請すると冊封だけなしとげれば日本軍は完全に撤退するであろうと信じ、日本を冊封体制の中に編入しようとしたのである。日本側も碧蹄館の戦いで明に勝利はしたものの、幸州山城で朝鮮に負けた後は大陸の寒氣․兵糧不足․朝鮮軍の抵抗などによって軍の戰意は失い、軍内での厭戰および撤收の雰圍氣が充満した。兵力の損失が大きくなると秀吉も行長の提議を受け止めざるをえなかったのである。日本軍の部分撤收を認めた秀吉は自分が日本國王に冊封されるのを熟知し、明との和議交渉を認めたのである。最後に、秀吉が冊封をもらった当時の状況と丁酉再亂が勃發した原因をみると、秀吉は明の 冊封の手続きを受け止め書冊と金印,誥命などをもらい、自分が日本國王に任命されたことを知っていたに。ただし、以後、沈惟敬と再び会った際、朝鮮での撤退問題がはみでると日明講和交涉は破れた。それにもかかわらずこの問題が後代になってからは秀吉がまるで冊封を拒否したものと歪曲され伝えられたのである。秀吉は長い期間、戦争で兵士らの戰意は次第に失い、軍内での厭戰雰圍氣と兵力の損失が大きくなると明との和議交渉を通じてこの問題を解決しようとしたのである。戦争を開始し、または終結する時も秀吉は明に対する冊封の槪念を忠誠や從屬とは異なる任意的․ 實利的な次元で接近しようとしたのではないかと思う。そのため戰況によって明の日本國王の提案が受け入れったり、また一方では明征服の野望を抱けたのである。秀吉を日本の国王に任命する冊封を通じて戦争を終わらせようとした明の意図と、不利な状況を切り抜けるため日明講和交渉という外交的、 經濟的な手段を通じて領土確保という実利を追求しようとした日本の見解の差が丁酉再亂を呼ぶつけたのである。したがって今まで通說として知られてきた<秀吉の日本國王の任命拒否説>を丁酉再亂の勃發の原因として把握するのは再考すべきである。

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