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鹽干 朴於屯과 獨島

권오엽 1

1충남대학교

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ABSTRACT

朴於屯は安龍福と共に日本に拉致されて送還されたにもかかわらず、全ての記録は安龍福が中心となっており朴於屯に関する記録は少ない。ところで最近、朴於屯の戸籍が発見され、その身分の一部が明らかになった。彼は1661年に良人朴己の子として生まれ、奴婢千時今と結婚した。彼が兵営塩干の良海尺であったことを勘案すると、水軍の櫓軍であった安龍福のように水軍の経歴を持ち、それを生かして鬱陵島へ渡海して拉致され、1696年にも再度渡海したと思われる。朴於屯に関する記録は朝鮮よりは日本に多い。彼が供述したという内容と「号牌」の来録などである。1690年に蔚山で発行したという「号牌」は戸籍の内容と同じで、青良 目島里に居住する30歳の人物で1661年生まれであった。1690年に30歳であることから1693年には33歳であったはずだが『竹島考』での供述では34歳になっている。計算方法の差であろう。朴於屯は拉致された1693年には安龍福と同行したが、訴訟の目的で渡海した1696年の一行には含まれていなかった。鬱陵島まで渡海していながら、5人の僧侶を含む一行に入っていないということは、当時の朝鮮人が多様な形で渡海していたことを意味する。また朴於屯の意思であるか、そうでなければ除外された結果であろう。朴於屯と安龍福は船頭と下人の関係と説明されることもあるが、 朴於屯が安龍福に守護されていたことは事実である。小屋番として勤めていた朴於屯が拉致される危機に見舞われた時、それを阻止しようとした安龍福も共に拉致されたことからそれが分かる。その朴於屯が鳥取行きの一行に含まれていないのは安龍福が除外した可能性と、朴於屯が参加を断った可能性が考えられる。前者ならばそれなりのわけがあったであろう。拉致された彼が日本の審問に反論する安龍福の主張に同調することより、日本の期待に沿って振舞ったり陳述するなどして日本に正統性を与えていたならば、除外された可能性もある。また彼が目島里に移住する前に居住した大垈里が山村であって、海尺になったとしても海の仕事に慣れていないので除外した可能性もある。彼が鬱陵島で小屋番として勤めていたのもその故だったかも知れない。つまり漁労に向いていないので小屋で勤めながら後始末などをしたのであろう。尤も「塩干」であった彼は漁獲物に対し塩漬け作業などをするために渡海の一行に参加していたかも知れない。朴於屯が水軍の経歴者で、隠岐住民と親しい関係であったことを想起するなら、猟のみを目的にした渡海ではなかった可能性もある。安龍福一行が鬱陵島に約2か月も逗留してから鳥取に赴いたが、その間の行跡が不明である。僧侶を含む一行が何をしながら過ごしていたかも疑問として残る。朴於屯の場合は「塩干」の役割を果たしていたのであろう。このような点から東海を拠点にする国際的な海上流通業の存在を想定し得る。

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