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‘황민화’와 ‘내선일체’로 본 친일문학의 양상*

정창석 1

1동덕여자대학교

Accredited

ABSTRACT

 所謂戦争文学から決戦文学に至る「親日文學」である「新体制文学」の時局論議は、植民地支配権力が文学者を傍観する筈がないという事を勘案しても、当局の目を逸らす手段であるとか、権力の強制による屈服であるとだけでは済ませない問題を未だに残している。 それは、彼らのその自発性の問題であり、植民地の現実に順応する現実妥協の知的無気力の問題である。そして、植民地時代の親日行爲がそうであるように、それが持つ背民族的性格の問題である。 「親日文學」の重要な内容の一つが所謂「聖戦」参加の問題であった。周知の通り、戦争とは国家と国家あるいは集団と集団との戦いである。その国家または集団は、同じ価値観や目的、あるいはイデオロギーに支えられ、国家あるいは民族をかけて対決するのである。満州事変、日中戦争に於いて韓国民族にこのような要素が実在したのだろうか。また、太平洋戦争に韓国の民衆がどれ程の参与意識を持っていたのだろうか。当時の韓国は植民地という時代状況で、人的物的資源の利用を狙う日本帝国主義によって強制的にかの戦争に巻き込まれて行ったのであるが、「親日文學」の文学者たちが叫んだ勝利とは裏腹に、韓国の民衆の動向は日本帝国主義の敗北を願っていたのが実状であった。 そして、いわゆる「親日文學」の文学者たちが日本人意識の上に立ち、参与意識を露にしたにもかかわらず、彼らが夢見た「大和民族との同等の地位」あるいは「アジアの指導民族」にはついになり得なかったのである。 結局、これらの「聖戦」への参加を呼びかけるのは、日本帝国主義への忠実な服務と屈服を意味する事に過ぎないし、韓国民族の巨大な犠牲を強要する事に他ならないのは勿論、いつの間にか、アジアの加害者の方に加担する矛盾をはらんでいたのである。 したがって、いわゆる「新体制文学」の重要な主題の一つである韓国人の「聖戦」参加問題は、韓国の民衆とアジアの民衆に対して同時的に戦争責任を負わなければならない結果を招くしかない。 「親日文學」たる所謂「新体制文学」の論理は二つに要約できる。一つは、植民地支配下の現実受容と妥協がそれである。現実とは主に日本帝国主義の戦争遂行を意味する。韓国は、日中戦争までは所謂「大陸兵站基地」と呼ばれたが、太平洋戦争以後は所謂「大東亜兵站基地」と呼ばれるに至った。日本帝国主義は所謂「聖戦」の拡大につれて、植民地韓国の人的、物的の両面にわたっての総動員体制が緊急課題となり、韓国に於いての所謂「新体制」が始まったのである。厳しい検閲の下、文学者の動員もその一環であった。 もう一つは、現実反映である。「親日文學」に於いては、急変する「聖戦」の戦況を反映しながら、「皇民化」と「内鮮一体」の実践と、民衆の戦争参与意識を鼓吹する作品の創作が重要視された。いわば、文学の政治的宣伝道具への転落であるし、この段階で「親日文學」はなくなって日本文学へ帰属するのである。

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This paper was written with support from the National Research Foundation of Korea.