@article{ART000961791}, author={李 美 淑}, title={A Study on Kageronikki}, journal={Journal of Japanese Culture}, issn={1226-3605}, year={2005}, number={25}, pages={55-70}
TY - JOUR AU - 李 美 淑 TI - A Study on Kageronikki JO - Journal of Japanese Culture PY - 2005 VL - null IS - 25 PB - The Japanese Culture Association Of Korea (Jcak) SP - 55 EP - 70 SN - 1226-3605 AB - 本稿は蜻蛉日記の作者道綱母が「自らが身を以て生きた時間」をどのように作品に形象化しているのかを、作品に用いられた時間の經過を表す比喩的表現のうち、特に「塵」という表現に注目し考察してみたものである。
考察の結果、先ず蜻蛉日記における時間の經過を表す比喩的表現は、語り手(表現主體)である道綱母を中心に置いて分析してみたとき、道綱母の待つ時間(兼家の不在の時間)、道綱母の過ぎにし時間(兼家との結婚生活の時間)、道綱母の不在の時間という三つに分けることができる。なお、蜻蛉日記に先行する和歌において「塵」という歌ことばは、萬葉集に一例、古今和歌集に五例、後撰和歌集に三例、大和物語に三例、宇津保物語に七例見られるが、これらの「塵」の比喩は、「取るに足りないもの」(八例)、「夜離れ」(五例)、「つまらなくてみすぼらしい身」(三例)、「人の途絶え」(一例)、「先例」(一例)、「煩惱」(一例)の順に用いられていたことが分かった。さらに、蜻蛉日記に「塵」の用例は八例見られるが、そのうち歌ことばとして用いられているのは三例である。これらの歌に收められている「塵」は、從來「夫不在の妻の寢室の枕や床に積もる塵は、逢瀨の途絶えた日數の象徵で、王朝的閨怨の代表的な素材」として歌に用いられてきたのである。しかし、時間の觀點から「塵が積もる」場面を見ると、一方で「待つ女」である道綱母が「塵が積もる」ほど兼家を「待つ時間」、言い換えれば兼家の不在の時間を表す比喩的表現として取ることもできると思われる。
つまるところ、「塵が積もる」という表現が時間の經過を表す比喩的表現になったということは、蜻蛉日記という作品における、時間表現の重要性を物語っているのであり、蜻蛉日記はこのように、從來のイメージを受け繼ぎながらも、自分なりの表現の獨自性を構築していると言えよう。 KW - DO - UR - ER -
李 美 淑. (2005). A Study on Kageronikki. Journal of Japanese Culture, 25, 55-70.
李 美 淑. 2005, "A Study on Kageronikki", Journal of Japanese Culture, no.25, pp.55-70.
李 美 淑 "A Study on Kageronikki" Journal of Japanese Culture 25 pp.55-70 (2005) : 55.
李 美 淑. A Study on Kageronikki. 2005; 25 : 55-70.
李 美 淑. "A Study on Kageronikki" Journal of Japanese Culture no.25(2005) : 55-70.
李 美 淑. A Study on Kageronikki. Journal of Japanese Culture, 25, 55-70.
李 美 淑. A Study on Kageronikki. Journal of Japanese Culture. 2005; 25 55-70.
李 美 淑. A Study on Kageronikki. 2005; 25 : 55-70.
李 美 淑. "A Study on Kageronikki" Journal of Japanese Culture no.25(2005) : 55-70.