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일본의 여백문화와 요세이(余情)(1)* ー특히 언어상에 나타나는 여백을 중심으로ー

Lee, Jin-Ho 1

1원광대학교

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ABSTRACT

現代社会は言語万能社会といっても過言ではあるまい。とはいえ、実際の言語行動の場においては、沈黙もまたコミュニケーションの一つとして認識されているのも事実である。つまり、言語上において、表現者の意図による<間>には少なくとも表現者なりの意味合いがあって、その<間>に対する理解は当然ながら享受者側の言語外的な余情に依らざるを得ない面がある。  ところで、我々膠着語的な観点からみると、中国語は本質的に<間>を孕んでおり、日本語もまた同質の韓国語に比してその使用範疇が広いといってよかろう。実際の談話の場においての時間的なものを除外したら、日本語にみる言語上の<間>は、語法上における自然的(本質的)なもの、情緒的(感覚的)なもの、人為的(意図的)なものなど、この三つに分けて考えることが出来よう。とりわけ、人為的なものはもとより、一部の情緒的なものにおいてさえも、日本語にみる<間>の理解は、体質的に享受者側の広義的な面においての余情に頼る傾向にあると考えられる。  こうした日本語における<間>の感覚は、従来指摘されてきた如く、それが水平構造論によるものかも、あるいは言語上における縮小志向の一断面を示すものかも知れない。しかし、言語上にみる日本の<間>の文化が本格的にあらわれるのは平安時代の国風文化以降であることに注目すべく、これを演繹的に考えてみると、おそらく『古今集』の作風が示すように、仮名文字の成立とともに、漢詩における観念的な表現が無意識中にでも移植される過程においての一現象ではなかろうか。いずれにせよ、こういった日本の<間>の文化は、欧米文化の輸入以来その範囲を狭めながらも未だに顕著で、他の分野とも合わせて考えてみる必要があろう。

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