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『或る女のグリンプス』から『或る女』へ

Jung, Ug-Sung 1

1남서울대학교

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ABSTRACT

本稿で、『或る女のグリンプス』の「完結」ㆍ「中絶」という文献的問題を踏まえつつ、『或る女のグリンプス』の根源的な主題について考察した。特に、西垣勤の論と蒲生芳郞の論との両氏の説に注目しながら、それぞれの論点の是非にについて論じながら、新たに『或る女のグリンプス』の読みを提示したのである。  まず、蒲生芳郞は、『グリンプス』における幾つかの要素―破れた懐中鏡ㆍ田鶴子のヒステリー症ㆍ下腹部の痛みㆍ凶夢ㆍ「青白い顔」の少女との出会いの場面ㆍ愛子と貞世に対する差別待遇ㆍ倉地の犯罪行爲の伏線等―を取り上げ、これらの場面が『或る女』の後編の破滅を暗示するものと考えられるのは、作者の意図した描写に他ならない。そのように考えた場合、『グリンプス』は完結された作品ではなく、『グリンプス』の結末が物語っているように、その先には主人公の破滅を描いた『或る女』の後編とつながるのは当然のことである。その意味でも『或る女』の前ㆍ後編は屈折されたモチーフで描かれているのではなく、前ㆍ後編の首尾一貫した「トータル」な読みを必要とすると主張した。しかし、だからといって、必ずしも後編の破滅の場面を描かなければならないということではないのではなかろうか。つまり、これらの破滅的な予知の描写は、蒲生氏が言う後編の破滅を必要とする伏線的なものではなく、『グリンプス』において、ただ予知的な機能のみを意図して描かれたのではなかったかと本稿では、論じられているのである。  それから、『グリンプス』の段階では、西垣勤がいうように、「一先ずの開放感を得て終わった」ではやや無理があるみるのである。どちらかというと、『グリンプス』は開放感を得たのではなく、本論で考察した「いまはしい」という言葉が象徴するように、『グリンプス』執筆当時に抱えていた有島自身の精神的苦悩―キリスト教に対する苦悩―を完全に振り切ったとは言えないと思うことを本稿では、主張されているのである。

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