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『隠州視聴合紀』の名所和歌

ITO, Masahiko 1

1우송정보대학

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ABSTRACT

 1667年(寛文7)に出雲松江藩士斎藤豊宣が著したとされる『隠州視聴合紀』は獨島/竹島領有問題が議論される際に言及されることが多いが、同書は果たして獨島/竹島の領有権を明らかにすることを目的として書かれたものなのであろうか。決してそうではあるまい。『隠州視聴合紀』の著者とされる斎藤豊宣は出雲松江藩の藩士で1667年(寛文7)に藩主松平綱隆により隠岐郡代役を命じられている。斎藤は隠岐へ渡って任地をくまなく巡視しながら古老から伝説や遺聞を集め、隠岐の地理、産物等について書き留めたのであり、それが『隠州視聴合紀』である。言うなれば任地に関して藩主へ報告するための報告書である。このような事情を勘案したとき、異質に見えるのが隠岐の風土誌とは直接的に関係のないとも言える巻4の最後に収められている「名所和歌」である。  本稿では『隠州視聴合紀』巻4に見える上述の「名所和歌」のもつ意味に対する考察を行なった。斎藤豊宣は『隠州視聴合紀』の「名所和歌」を通じて隠岐の歌枕を紹介だけでなく1首目と2首目の和歌を通じてかつて隠岐に配流された後鳥羽院に対して新たに赴任した「新島守」としての自身の立場を重ね合わせて共感を示した。そして3首目、6首目、11首目の3首の和歌を通じ、19年という長い歳月を隠岐で過ごし、苅田郷の配所で寂しく世を去った後鳥羽院への追慕と鎮魂の念を示した。また、後鳥羽院のみならず隠岐は古くから流刑の地であり、無数の人々が配流されており、隠岐郡代として流人を監督する位置にあった斎藤は4首目と5首目の和歌を収録してこれらの家郷を離れて隠岐に流されてきた流人たちの心に思いを致すとともに鎮魂し、同時に朝幕関係の桎梏に苦しんだ宗尊親王への関心もしめしている。そしてさらに世の中に善政が布かれていることを称える意味も込めて島後都万の高田明神に奉納された百首和歌からの国見的な詞章を想起させる7首目から10首目までの4つの和歌を名所和歌に収録することで斎藤豊宣は自身の統治の安寧と神明の加護を祈り、寿いだのであった。以上のようなことが斎藤豊宣が『隱州視聽合紀』に「名所和歌」を収録した理由であると推察されるのである。

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