@article{ART000929772}, author={권정}, title={韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化}, journal={Journal of Japanese Culture}, issn={1226-3605}, year={2004}, number={21}, pages={213-228}
TY - JOUR AU - 권정 TI - 韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化 JO - Journal of Japanese Culture PY - 2004 VL - null IS - 21 PB - The Japanese Culture Association Of Korea (Jcak) SP - 213 EP - 228 SN - 1226-3605 AB - 古代、同漢字文化圈に屬していた日本と韓國においての文字の始まりは、中國が秩序付けた東アジア世界へ參加するための政治的な要請によるものであった。このような「外部の文字」が古代日本と韓國の國家內部で意味を持ち機能し始めるのはいつからなのか。日本の場合、それは5世紀以前の文字とは性質を異にする「刀劍銘」から推測することができる。稻荷台一号墳出土鐵劍銘の「王賜」、稻荷山鐵劍銘と江田船山鐵刀銘の「治天下」「大王」は、日本が中國を中心とした世界から離れたところで、自らを中心とした世界を構築していることを表わす。しかし、これら銘文は魏志倭人伝で卑弥呼の使いに贈り物として渡されている「五尺刀二口」から推定されるように、日本內部で獨創的に考案されたものではなく、中國のそれを方法として模倣したものである。韓國の場合、國內で意味を持つ最古の文字資料は高句麗の「廣開土王陵碑文」である。この碑文は高句麗が中國の中華思想を取り入れ、高句麗を天下の中心國に位置づけ、中國の天下から離れたところで獨自の天下を構築していることを示している。それは新羅の「眞興王巡狩碑」に關してもいえることで、巡狩碑には「朕」や「帝王建号」などの語が見える。この「朕」は中國始皇帝にその起源を持つ文字であるが、その始皇帝も巡狩碑を立てており、それら碑文は共通して、みな山に立てられている。始皇帝が巡幸した山は、泰山は无論のこと、その多くが古くから近隣の國々によって神聖視されてきた山である。同じことが眞興王巡狩碑においても言え、北漢山碑が立てられた北漢山は、はやくから漢水流域にある標幟的な山岳として、大と天の義を合わせ持った神聖な山として崇拝され、磨雲嶺は胡をふせぐ役割をなし、黃草嶺は新羅が沃沮から簒奪した嶺である。このように、これらの山は他國との境界をなし、國を保護する役割をなしていたため、神聖な山として地域の住民に崇められていた。また、始皇帝の碑がみな國の辺境に立てられているように、眞興王の巡狩碑もみな國土の辺境にある。そして、碑文には「蒙天恩」「四方託境」とあり、新羅が自らを世界の中心に据えていることがわかる。このように日本、高句麗、新羅は國の成長とともに、自らを中國中心の天下から離れた所に位置づけようとし、その方法として中國の世界觀を國內へ轉用した。そこに文字の內部化が生じることとなる。 KW - DO - UR - ER -
권정. (2004). 韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化. Journal of Japanese Culture, 21, 213-228.
권정. 2004, "韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化", Journal of Japanese Culture, no.21, pp.213-228.
권정 "韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化" Journal of Japanese Culture 21 pp.213-228 (2004) : 213.
권정. 韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化. 2004; 21 : 213-228.
권정. "韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化" Journal of Japanese Culture no.21(2004) : 213-228.
권정. 韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化. Journal of Japanese Culture, 21, 213-228.
권정. 韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化. Journal of Japanese Culture. 2004; 21 213-228.
권정. 韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化. 2004; 21 : 213-228.
권정. "韓日の5世紀から6世紀にかけての文字の部化" Journal of Japanese Culture no.21(2004) : 213-228.