@article{ART000929896}, author={형진의}, title={近代日本における「語の諸問題}, journal={Journal of Japanese Culture}, issn={1226-3605}, year={2004}, number={22}, pages={55-70}
TY - JOUR AU - 형진의 TI - 近代日本における「語の諸問題 JO - Journal of Japanese Culture PY - 2004 VL - null IS - 22 PB - The Japanese Culture Association Of Korea (Jcak) SP - 55 EP - 70 SN - 1226-3605 AB - 一般に談話に用いられる話し言葉とそれを基に書いた文章という表現樣式「口語」は、近代國民國家の「國語」と共に發生した槪念である。上田万年は1894年、「國語と國家と」において「國語」を打ち立て、「國語」によって「日本人」は結ばれており、その「國語」は「日本人」にとって「精神的血液」であると述べている。そしてその「國語」は「標準語」によって實踐される。上田のいう「標準語」とは、今現在話される言葉、そして全國どこでも通じる言葉、すべての人に理解できる言葉として、「東京の中等以上の敎育ある人々のことば」である。そして「標準語」の要件としては「實際話される」言葉、そしてそれを基にした文章でなければならない。この「實際話される言葉」とそれを書き寫した文章こそが、今日でいう「口語」なのである。
このような背景をもって生れた「口語」なのだが、術語として登場するのは、明治以降である。最初は主に「話し言葉」の意味として、「言語」、「俗言」と共に用いられていた。明治中期「言文一致」によって話し言葉への關心が高まるにつれ、「口語」はもっと頻繁に見られるようになる。そして今日のような「口語」槪念が定着するのは、明治30年代以降「國語」の登場によってである。
近代日本における「國語」は、「國民」を統合する裝置として、「單一で均質な言語」であることと、民族性や、歷史、伝統に基づいた「自然な言語」であることが求められる。「口語」はこのような「國語」イデオロギーの具体相として生れた槪念だが、その實体は「自然」とは正反對の、極めて人爲的な言葉である。しかし「口語」は「國語=母語」の名によって、「日本人」にとってもっとも自明の事實として受け止められてきた。
「國家」、「國民」、「國語」の槪念が希薄だった百年前は、その「口語」を用いることによって「國民」、「臣民」としての連帶感が期待された。しかし百年経った今日は、グローバリゼーションに對抗するためのナショナルアイデンティティの求心点として、「國語」=「母語」=「自然な言語」というイデオロギーは、依然として機能しつづけている。
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형진의. (2004). 近代日本における「語の諸問題. Journal of Japanese Culture, 22, 55-70.
형진의. 2004, "近代日本における「語の諸問題", Journal of Japanese Culture, no.22, pp.55-70.
형진의 "近代日本における「語の諸問題" Journal of Japanese Culture 22 pp.55-70 (2004) : 55.
형진의. 近代日本における「語の諸問題. 2004; 22 : 55-70.
형진의. "近代日本における「語の諸問題" Journal of Japanese Culture no.22(2004) : 55-70.
형진의. 近代日本における「語の諸問題. Journal of Japanese Culture, 22, 55-70.
형진의. 近代日本における「語の諸問題. Journal of Japanese Culture. 2004; 22 55-70.
형진의. 近代日本における「語の諸問題. 2004; 22 : 55-70.
형진의. "近代日本における「語の諸問題" Journal of Japanese Culture no.22(2004) : 55-70.