@article{ART000939296},
author={金 靑 均},
title={The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime},
journal={Journal of Japanese Culture},
issn={1226-3605},
year={2005},
number={26},
pages={253-269}
TY - JOUR
AU - 金 靑 均
TI - The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime
JO - Journal of Japanese Culture
PY - 2005
VL - null
IS - 26
PB - The Japanese Culture Association Of Korea (Jcak)
SP - 253
EP - 269
SN - 1226-3605
AB - 本論文では、クローディアスの日記と范の犯罪にみられる生命觀、罪の意識などを根據に、兩作品がキリスト敎との關連の上で把握できることを提示した。
キリスト敎の新約聖書では、生物學的な生命としての「プシュケー」と、キリスト敎を信じることによって獲得された永遠の生命としての「ゾーエー」を明確に分けて考えている。〈意味のある人生〉對〈生命力に滿ち溢れる人生〉を意味すると考えられる、兩作品のキーワードである「本統の生活」は、生物學的な生命の限界を乘り越え、魂が救濟され、永遠に生き續けられることを意味する「永遠の生命」というキリスト敎の生命觀念が変容されたものと見ることができる。
兩作品には、キリスト敎の罪の觀念が橫たわっていると考えられる。クローディアスの日記のクローディアスは、兄の首を絞めたと想像するだけで、實際に兄の首を絞めたような罪の意識に襲われる。これは、罪の成立條件を心の動機で探るキリスト敎的な罪の觀念に酷似している。また、新約聖書において、イエスは人々の僞善性を戒め、神へ服服從することによってのみ、人々は救濟されることを說破しているが、このような人々の〈僞善性〉への戒めは、〈正直に〉自分を見せることによって無罪を勝ち取ろうとする范の犯罪の主人公范の論理に一脈通じると考えられる。さらに、范の話を聞いて、そこに〈僞善性〉が潛んでいないことを認め、その場で無罪を決定する裁判官は、キリスト敎の敎理の中では、人間を裁くことができる唯一の存在であるキリスト敎の神樣にあたると考えられる。
このように「自己中心主義」を代表する兩作品は本質的なところにおいて、キリスト敎と深く關わっていることを論証した。
KW -
DO -
UR -
ER -
金 靑 均. (2005). The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime. Journal of Japanese Culture, 26, 253-269.
金 靑 均. 2005, "The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime", Journal of Japanese Culture, no.26, pp.253-269.
金 靑 均 "The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime" Journal of Japanese Culture 26 pp.253-269 (2005) : 253.
金 靑 均. The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime. 2005; 26 : 253-269.
金 靑 均. "The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime" Journal of Japanese Culture no.26(2005) : 253-269.
金 靑 均. The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime. Journal of Japanese Culture, 26, 253-269.
金 靑 均. The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime. Journal of Japanese Culture. 2005; 26 253-269.
金 靑 均. The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime. 2005; 26 : 253-269.
金 靑 均. "The Ethics of Claudius's Dairy and Han's Crime" Journal of Japanese Culture no.26(2005) : 253-269.