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外国文学受容と翻訳問題―『蜻蛉日記』英訳を一つの例として―

SOONBOON CHEONG 1

1배재대학교

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ABSTRACT

一定の文学作品の翻訳は、作品が属している文化を代表すると同時に、翻訳者の文化と時代の特徴を表わし、副次的に文化比較の手段にもなる。文学的翻訳のテキストとその概念の取り扱い方は、自文化と異文化間の相対的な価値を示す有効で強力な指標となりうるのである。  本稿では、『蜻蛉日記』英訳の様相を一つの例にして、外国文化受容と翻訳問題について考えてみた。『蜻蛉日記』は西欧において最も翻訳しづらい作品の一つとして数えられるが、それにはまず、「日記文学」というジャンルの曖昧性がある。『蜻蛉日記』は、最初「日記」という言葉にひきつられ「diary」として見られ、事実性だけが強調された。しかし、以後、形式の流動性を重視して「autobiography(自伝)」と定義され、また創作的虚構性を特徴として考えた「memoir(回想録)」説が出てくるようになる。近来は、平安日記文学の固有性を考慮して、『蜻蛉日記』をそのまま「Kagerō nikki」と称することが多くなっている。  翻訳本については、サイデンスティッカー氏の訳『The Gossamer Years: The Diary of a Noblewoman of Heian Japan』は、英訳本としては最初の完訳本で、英語圏における『蜻蛉日記』受容に多大な影響を及ぼした。これは、複雑に絡み合っている原文を、短く切ったり、省略したりして分かりやすい文章にしたものである。男性的視線によってストーリの大枠を伝えようとした面で、「形の翻訳」と呼ぶべきものであり、平安時代の社会的な面を主に考慮した翻訳と言える。それに比べてアーンツェン氏の完訳本『The Kagerō Diary』は、女性の文体を生かして作者の心情までを訳そうとした「心の翻訳」であり、文学的な面までを考慮した翻訳と言える。  ところで、そのような文学的な翻訳、すなわち「文化翻訳」が必ずしも「よい翻訳」になるとは言い難い面がある。文学作品の場合、翻訳は第二の文学作品を創造する営為である。いくら文化的に完璧に訳したとしても、文学作品として読者に感動を与えないものであれば、それを「よい翻訳」とは言えない。実際、女性の文体までを生かして『蜻蛉日記』の世界を再現しようと努めたアーンツェン氏の翻訳を、一角では『蜻蛉日記』を却って難しくし読む気を無くしたものとして非難する人もいる。外国文学受容の成熟度が、必ずしも「よい翻訳」と正比例の関係にあるわけではないことを再確認させる。それが翻訳の難しいところであり、翻訳というものをより有機的で柔軟に把握していく必要性を我々に呼びかけるものと思われる。

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