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일본 사가현의 임란포로에 관한 연구

NO, Sung Hwan 1

1울산대학교

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ABSTRACT

本稿は壬亂と丁酉の倭亂によって日本軍に捕虜となり、海を渡って佐賀県に定着した非陶工の人々を中心に考察したことである。彼らは主に唐津と佐賀そして武雄という地域に多く住んでいた。唐津の場合、唐人町という所で木棉と香を製造する朝鮮人たちが多く住んでおり、また高德寺では捕虜の刷還するために朝鮮禮曹から送った諭告文が保管されていたことが分った。そして佐賀市では 知識階層の朝鮮捕虜も多かった。その代表的な人物としては林榮久, 李九山の一族などが挙げられる。林榮久は藩主から信任を受けた醫師であった。彼は藩主が死ぬと殉死したいと思ったが達成できず、自分の子供にそれを願った。その結果、彼の次男はそれを實踐した。自分の仕えていた主君が死んだ際、殉死する朝鮮人は、ただ林氏一族だけではない。鍋島勝茂が死ぬと、その家臣たちが次から次へ殉死した。そうすると今度はその家臣の家来が殉死することが起きた。大野吉兵衛の家来であった朝鮮人淨眞と太左衛門の夫婦の自殺は、まさにそれに属する殉死はであった。その一方、佐賀の産業に大きく貢献した朝鮮人捕虜もいた。製藥と更紗技術を開發した李九山をはじめ無名の行李工, 飴工, 織工たちがそれである。そのほか槙忠左衛門という少年捕虜もいた。多久には養父母に殺された朝鮮少年捕虜の話しがあった。この話しは才能のある少年捕虜だったらその才能を高く評価し自分の養子にすることもあったあるが、万が一その才能が自分たちに威脅になると、早速除去してしまう人間の冷酷さがある。このように佐賀県の朝鮮捕虜たちは社會的に安定された生活をするためには武士になった捕虜は、切腹殉死するほど主君への忠と義を守り、一般人たちは獨特の專門的な技術と特徵を持っていなければならなかった。これは日本での朝鮮捕虜の社會的な地位がいかに不安定であったかをよく示されていると見なされる。

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