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1960년대 오시마 나기사(大島渚) 영화 속의 재일조선인 표상

Hakyoung Shin 1

1숙명여자대학교

Accredited

ABSTRACT

大島渚の1960年代の映画に表れる<朝鮮>表象は現在にまで続く日本の戦後責任を問う上で非常に重要な観点を与えてくれる。1963年に放映された『忘れられた皇軍』以前には、例えば『太陽の墓場』にみられるように、朝鮮人は下層プロレタリアと連なる存在として思考された。しかしその階層の中で革命の可能性を見いだしたということは1960年代の一般的な左翼の<朝鮮>観とさほどの差異はなく、大島の<朝鮮>表象もその程度にとどまっていたと言える。 しかし1964年大島は韓国を体験することになり、それをきっかけに<朝鮮>に対する認識の変化を表すようになる。言ってみれば、大島は『ユンボギの日記』(1965)から漸新的に、<朝鮮>について<他者>意識から<当事者>意識に進んで行くのである。そして1967年から68年にかけて集中的に『日本春歌考』(1967), 『絞死刑』, 『帰ってきたヨッパライ』(1968)を発表し、その中で「小松川事件」と「金嬉老事件」を扱うことで、大島は朝鮮を日本の鏡として認識し、客観化する視線を獲得していく。そしてその視線は当時の主流的な左翼の<朝鮮>認識とは異なるものであり、1970年代に入って露呈される彼らの教条性や硬直性をすでに見据えていたのである。 また大島渚の映画が現在的だという事は、それが従軍慰安婦の問題や戦後責任の問題を扱っているという歴史的観点が重視されるだけではない。『バッチギ』が『帰ってきたヨッパライ』を参照項にしている点で端的にみられるように、大島の映画はその表現においてもきわめて現在的である。 グローバライゼーションが押し進められるなか、新しい「東アジアの中の日本」が議論されて久しい。しかし歴史的に日本が自らのその位置をどのように捉えてきたのかは細心に検討しなければならない問題であり、その点で1960年代の大島の映画は一つの達成点として評価しなければならない。現在の問題点は直接には大島が到達した認識を評価し、その限界を指摘することで解決の糸口を見いだせるものであろう。

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