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「厭世詩家와 女性」論 -에머슨의「LOVE」(「戀愛」)의 受容을 中心으로-

이종환 1

1경북대학교

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ABSTRACT

本考は日本の明治作家、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」(明治25年)に關する硏究である。そのポイントはエマソンの恋愛観を透谷がどのように受け止めているかを調べるところにある。「戀愛は人世の秘鑰なり。戀愛ありて後人世あり、戀愛を描き去りたらむには人生何の色味かあらむ」。この評論の冒頭が示す恋愛至上主義の宣言は島崎藤村、木下尙江.らの同時代の青年達に大きな衝撃を与えた。男尊女卑の思想が澎湃していた明治時代に男女平等あるいは女性を恋愛の相手として考えている。言わば、女權伸張に力を注いた透谷の文学活動はエマソンの恋愛観に感化されたところは多い。以下、両者の恋愛観を比較検討してその主眼點をまとめてみよう。一つ、「想世界と實世界との爭戰より想世界の敗將をして立篭らしむる牙城となる」ものが「恋愛」である。それで、「恋愛」の役割は「想世界」と「實世界」を媒介するところにある。このような透谷の兩文學像である「想世界」と「實世界」の原拠に相応しいものがエマソンの「LOVE(恋愛)」に見られる。それは「蕾のころ」は「大人の 世界」である。従って、透谷の言う「想世界」と「實世界」の問題は、かならずしも透谷のオリジナリティではないと思われる。二つ、透谷、エマソン、両者は共に恋愛を賛美しながらもそれぞれの恋愛観への見方は大きく違う。透谷の恋愛観は「厭世主義」的である。これに比べてエマソンの恋愛観は「樂天主義」的である。このような両者の相異点には両者の結婚観に関わりあっている。すなわち、透谷の結婚生活が不幸なものであった。その反面エマソンの結婚生活は幸福なものであった。透谷の言う「厭世詩家」にはこの結婚生活からもたらされた「危機」を乗り越えるための「一種の円満な理解」というものもない。それ故にエマソンの言う「真の結婚」に到達しえず、「厭世」のどん底に陥ってしまう。そこに「厭世詩家」が女性を愛せざるを得ない背景がある。

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