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소세키(漱石)와 오가이(鴎外)의 청년상-『산시로(三四郎)』와 『청년(靑年)』을 중심으로-

Yun Hye Young 1

1충남대학교

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ABSTRACT

本論では、『三四郎』と『青年』の中に登場する男女主人公の造型の特徴を中心としてその差と原因について考察し、漱石と鴎外との時代認識と当時の青年像の一面について探ってみた。 『三四郎』と『青年』は、田舎の青年である三四郎と純一が上京して現実社会を認識していく過程を描いている作品だと言える。まず三四郎は激しく変化する東京の姿を見て驚き、漠然たる夢を持っているうぶな青年として描かれる。一方、純一は青年のような面と中年の姿を同時に持っており、現代社会を書く小説家になるという確固たる夢を持っている。両作品には明治社会の暗いイメージが描かれているが、広田先生を通して痛烈な批判をしている漱石とは違って、鴎外は純一の持つ中年性を作家への強い意欲と批判にだけ注いでいる。これはそれぞれ違う留学体験及び生い立ち、人文と科学という研究分野の違いから出てくる結果だと言えよう。 またバラとダリアとして形象化され、西洋から入ってきた人工的な香水の香りを漂わせる女性達は三四郎と純一が現代社会を経験する主な媒介體としての役割を果たす。美禰子が落した香のないバラの花は三四郎との関係が無意味に終わってしまうことを暗示し、美禰子の誘惑的な香水の香で三四郎は葛藤しまた彷徨する。一方、ダリアのイメージで描かれるお雪と香水の香を発散する坂井夫人によって純一の性的欲求が露骨的に描かれ、愛の感情がよく見えない『三四郎』の世界と違う面を持つ。  結局、最後の場面の三四郎の「ストレイ․シープ(stray sheep)」という言葉で現われているように漱石は時代の中で「迷う青年像」を描いたのである。一方、純一は愛情のない坂井夫人との関係から淋しさを感じるようになり、これは現代社会への幻滅と挫折に繋がる。しかし純一は伝説をもとにした小説を書く決心をするに至るが、これは鴎外の「あきらめ」の態度からその理由を探ることができ、現代社会に対する直接的な批判を回避する鴎外の態度がこうした主人公を造型したと言える。

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