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아베 고보(安部公房) 문학에 있어서의 <가족> ―<무능력한 아버지> 상(像)을 중심으로―

이정희 1

1위덕대학교

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ABSTRACT

しばしば安部公房の小説に描かれる家族というものは、父子、あるいは母子だけの場合が多い。どちらかの片親が欠ているのだ。しかし、母子の関係をとおして筋立を展開するといった物語はあまりみえない。それに対して、子供のいない夫婦、あるいは一人暮らしの独身男性が設定される場合が多く、都市の変貌にふさわしい、新しいといえば新しい家族のタイプがよく描かれる。  父親の登場は短編小説にも見えるのだが、そのシチュエーションは父親と、視点人物と焦点化される人物を兼ねる「ぼく」との父子関係である。小説に登場する父親はおおむね<だめ親父>ばかりである。たとえば、『壁ーS.カルマ氏の犯罪』に出てくる<都市>のパパであるユルバン教授は「ぼく」の胸中の壁を調査するために「ぼく」の胸を切り裂こうとする非情な科学者として造型されている。また、<田舎>のパパは「ぼく」が窮状に陥っても、なんとか理由をつけて「ぼく」を受け入れて助けようとしない。この父親も父性愛に欠ける非情な父という造型とみなせよう。  このような父子関係の設定の背景にあるものは、父性が持つべき権威と抱擁力の欠如による<父なるもの>の喪失であろう。そしてそれにともなう家族の崩壊である。  その上、安部公房の遺稿作品である『飛ぶ男』に出てくる父親は、超能力をもつ息子を利用して金儲けをしようと企んでいる。このような<だめ親父>の造型について「飛ぶ男」と父親関係をめぐって考察してみる。 作品に登場する父親像のイメージには安部公房に脳裏に刻み込まれた満州での体験が重ね合わされていたにちがいない。かつて日本の植民地だった満州。華やかだった植民地での生活も、敗戦とともにその崩壊が安部公房の家族にも訪れた。小学校の時代、日本の教師―それは父親的な存在でもあっただろう―によって五族協和の理念を信じ込まれていた少年公房は、敗戦後、戦争によって破壊され荒廃した「日本」の現実をみて、国家や父親にたいする強い不信をおぼえるようになった。 満州体験と敗戦後の光景を眼のあたりにして、彼の内部で「国家」と「父なるもの」とが結び付き、それまでの父親像は解体していったのではなかろうか。そのようなイメージは一貫して保存され、初期から遺稿作品においても、<父親>の造型は<だめ親父>として登場していると思われる。

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