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韓日両国の鬱陵島認識の起源

Ito Masahiko 1

1우송정보대

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ABSTRACT

本稿では鬱陵島に関する記録上の初見、またはその前後の時期の文献における韓国と日本の同島に対する認識について考察した。韓国の文献のうちまず『三国史記』には6世紀初頭に「方一百里」の疆域を持つ于山国が鬱陵島に存在しており、異斯夫の計略により512年6月に降伏、以後年ごとにその地の産物を貢上するようになった。于山国の人々は「悍」ではあるが「愚」であった、との認識が表れている。次に『三国遺事』には于陵島(羽陵島)は阿瑟羅州(溟州)の東の海中、順風なら二日程かかる所にあり、その周廻は26,730歩である。于陵島の人々は新羅の東の島に住む「夷」であり、于陵島の人々は海の水深が深いことを恃み、驕慢で臣従しようとしなかった。彼ら「島夷」は「驕傲」ではあるが「愚」であり、結局は伊飡朴伊宗の木製獅子を恐れて降伏した、との認識がうかがえる。そしてこれらの記録に見える鬱陵島(于山国)に対する派兵は新羅の世界観、すなわち自国をその徳を慕って四方の周辺国が帰服してくる天下の中心と見る思想と関連していると考えることができる。  一方『権記』『本朝麗藻』『公任集』『狭衣物語』などの日本の11世紀の文献に見える鬱陵島および鬱陵島人に対する認識は以下の通りである。11世紀初頭に因幡の国に漂着した「于陵嶋人」11人は、日本人とは風俗の異なる新羅或いは高麗の外国人であり、日本語を話すことができなかった。彼らは天皇の詔書により帰国を許されたため「皇恩」に感謝している、またはそうあるべき存在であると思われていた。彼ら一行の中には詩を解する者がおり、その交流は人間的に惜別の情を起こさせるものであった。 結局、韓国の文献は鬱陵島を6世紀に明確に自らの版図に編入されたものと認識している一方で、日本の文献は鬱陵島(于陵嶋、うるまの島)および鬱陵島人をそれぞれ言語風俗の異なる外国、外国人とみなし、そこに住む人々は日本語を解さぬ言語の通じない外国人と考えていたことがわかる。鬱陵島は古くから韓日両国の人々の交渉の舞台となり、時には領土紛争の対象ともなったが、両国の鬱陵島に対する認識の起源はこのようなものであった。

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