@article{ART001345970},
author={Kimyung Lee},
title={「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해},
journal={Journal of Japanese Culture},
issn={1226-3605},
year={2009},
number={41},
pages={59-80},
doi={10.21481/jbunka..41.200905.59}
TY - JOUR
AU - Kimyung Lee
TI - 「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해
JO - Journal of Japanese Culture
PY - 2009
VL - null
IS - 41
PB - The Japanese Culture Association Of Korea (Jcak)
SP - 59
EP - 80
SN - 1226-3605
AB - 「捨石丸」の冒頭に引用されている、大伴家持の萬葉歌は、その短さに比して、本篇で特別な意味を持つと考えられる。それは、<幸 → 不幸 → 幸>という作品の構図に、大きく關與しているという意味で、作品の母胎であると知られている、禪海法師の說話それ以上の意味をもつと言えるであろう。序盤での冤罪事件の発生はもちろん、末尾での、日高見神社の派手やかな風景にいたるまで、実に、この萬葉歌は、作品の要所要所で、その內在要因として作用している。
この萬葉歌が歌っている<陸奥での黄金の産出>という事實は、秋成にとって、大きな關心事の中の一つであろう。第一に、秋成の諸著述に見られる、作家の黃金についての言及に注目したい。まず、「貧福論」(『雨月物語(第9話)』)で秋成は、<土にうもれている黃金>を賛美しており、『膽大小心錄』・『茶瘕醉言』などでは、<土にうもれていない黃金>は惡性を発するという要旨を記述している。これらの言及は、家持の萬葉歌が歌っている、<陸奥での「黄金の産出」>に関する、秋成の否定的な見方が窺われる部分であろう。そのうえ、『膽大小心錄』には、土にうもれている黃金を發見して喜んだ人々が、結果的に、災いをこうむってしまう例話が多数掲載されている。これは本篇での、萬葉歌の引用につづく、ー思いがけないー冤罪事件の發生の意味が解読できる、興味深い部分であろう。第二に、秋成の萬葉集硏究書である、『金砂』(卷9)に注目したい。同書は、本篇とはさらに特別な関連を持つと考えられる。ここには、大伴家持の同じ萬葉歌群(長歌及び、本篇にも引用されている反歌1首)といっしょに、これに附與した長文の、秋成の私的な注釈が掲載され、この萬葉歌への、秋成の大きな關心が窺われる。秋成は同書で、<陸奥の黄金>に関連した、廬舎那仏、東大寺などの派手やかな佛敎の造形物について、「神にならひ。君の上に立たるにそ。朝野ひとしく是をのみ貴とめる」佛敎信仰の結果物だと批判している。さらに、これらを發願し、<陸奥での黄金の産出>を喜んだ、聖武天皇に向かっても、「聖とや申。武とあがむる。御謚こそふさはしからぬよ」と辛辣に批判している。『金砂』でのこのような秋成の一連の批判的言及は、祝願をこめて、<陸奥での黄金の産出>を歌った、家持の万葉歌の意図とは對照的な視覺だと言えるだろう。
すなわち、「捨石丸」での萬葉歌の引用は、この歌に内在している、当時の佛敎の世俗性を批判しようとする、作家の意図が秘められている、一種の象徵性としての意味を持つと考えられる。
とはいえ、秋成が佛敎それ自体を否定しているのではない。禪海法師의「青の同門」を主人公、捨石丸の<覚りの源泉>として位置づけているのは、まさに、その代表的なよい例であろう。このような秋成の佛敎觀は、上記の『金砂』などの、多数の著述にも表われているのは当然のことである。
一方、洞窟の開鑿という佛敎的な修行を達成した捨石丸が、死んだあと、捨石明神として拝められることや、大破していた日高見神社が派手やかに再建されるという、作品の末尾も、冒頭の萬葉歌と対比される、注目すべき重要な部分であろう。まさに、秋成においては、どちらにも偏らない神佛の調和こそ、望ましい理想鄕だったといえるのではないだろうか。このようにして、冒頭の萬葉歌が象徵している日本の古代の歴史は、作品の末尾で、江戸中期の新しい風景に再誕生されたといえるであろう。
以上、「捨石丸」での萬葉歌の引用の意味は、要約すると、次のように圖式化できるであろう。
-------------------------------------------------------------------------
萬葉歌の引用 ; 再評價 ; (再創作された)結晶體
⇩ ⇩ ⇩
幸 → 不幸 → 新しい幸
(陸奥の黄金と (冤罪事件の發生・ (捨石明神の誕生と
廬舎那仏の派手やかさ) 敵の関係と洞窟開鑿修行) 日高見神社の再建)
⇡
(禪海法師の說話)
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KW -
DO - 10.21481/jbunka..41.200905.59
ER -
Kimyung Lee. (2009). 「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해. Journal of Japanese Culture, 41, 59-80.
Kimyung Lee. 2009, "「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해", Journal of Japanese Culture, no.41, pp.59-80. Available from: doi:10.21481/jbunka..41.200905.59
Kimyung Lee "「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해" Journal of Japanese Culture 41 pp.59-80 (2009) : 59.
Kimyung Lee. 「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해. 2009; 41 : 59-80. Available from: doi:10.21481/jbunka..41.200905.59
Kimyung Lee. "「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해" Journal of Japanese Culture no.41(2009) : 59-80.doi: 10.21481/jbunka..41.200905.59
Kimyung Lee. 「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해. Journal of Japanese Culture, 41, 59-80. doi: 10.21481/jbunka..41.200905.59
Kimyung Lee. 「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해. Journal of Japanese Culture. 2009; 41 59-80. doi: 10.21481/jbunka..41.200905.59
Kimyung Lee. 「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해. 2009; 41 : 59-80. Available from: doi:10.21481/jbunka..41.200905.59
Kimyung Lee. "「捨石丸」에서의 萬葉歌 引用의 의미 - 『金砂』(권9)와의 비교 고찰을 통해" Journal of Japanese Culture no.41(2009) : 59-80.doi: 10.21481/jbunka..41.200905.59