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울릉도쟁계(竹島一件)의 결착과 스야마 쇼에몽(陶山庄右衛門)

송휘영 1

1영남대학교

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ABSTRACT

今まで竹島一件(=鬱陵島争界)の解決過程に関する研究では、南九萬の少論係政権が強硬路線で旋回することによって竹島一件の決着がついたと考える視角が一般的だった.しかし当時の対馬藩内部でも竹島(鬱陵島)が日本領土という主張が無理であるという藩内の強硬派に対して理に適当な現実的対応をしなければならないという穏健派の主張がおこり始めた。本論文では、このような穏健派である陶山庄右衛門に焦点を合わせ、竹島一件の決着過程を評価しようとするものである。特に、1695年 6月から 1696年 1月の「竹島渡海禁止令」が下りるまでの過程を考察しようとした。すなわち、日本側の史料を中心として竹島一件の過程を再評価しようとした。当時、対馬藩の内部でも日本側の武威という脅威を土台にした強硬策に対する反省がおこり始め、朝鮮に対して隣交の道理をもって対応しなければならないという陶山庄右衛門のような鳩派の主張が台頭しており、結局彼の説得と藩内の世論主導によって、江戸幕府が朝鮮漁民の竹島渡海を禁止するようにという最初の主張とは正反対の結果である日本人の「竹島渡海禁止」を言い付けるようになったということを考察した。しかし、南九萬政権の強硬路線が全然效果をおさめていないわけではない。朝鮮朝廷の強硬路線があったから交渉が長期の膠着状態に陷っており、この二つの事が結合して日本幕府の態度変化を誘導することができたと思う。それに安竜福の2次渡日によって竹島渡海禁止の事実を朝鮮側に知らせていなかったことを、朝鮮訳官だちが対馬に来た時伝達したという側面から、安竜福の2次渡日が竹島一件の決着を早めたことも事実である。

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