現存する日本最古の漢詩集『懐風藻』には作宝楼と呼ばれた長屋王の私邸に於いて新羅からの使者を饗応した際に詠まれた「於長王宅宴新羅客」あるいは「於宝宅宴新羅客」との題を持つ詩群が収載されている。本稿では詩群の作品に於いて「別離の悲愁慰勞馳思」「主客渾然主客同心」「華夷思想の発露」といった要素がどのように表われているかを渡倭系、非渡倭系に分けて検討してみた。 「別離の悲愁慰勞馳思」および「主客渾然主客同心」については渡倭系作者、非渡倭系の作者を問わずどちらの作品にも表われていることがわかった。その反面「華夷思想の発露」については確実な用例は非渡倭系作者の作品にのみ見えることが注目される。この事実は詩を残した者のうち渡倭系の文人が半数以上を占めている事実が新羅の使節を招くということに対する主人長屋王の配慮によるものであったという辰巳正明(1990)の指摘を勘案するならば、渡倭系文人たちが自身らの祖先の郷国より訪れた新羅使に対して、礼を失する可能性のある「華夷思想の発露」を詠み込むことを敢えて避けたための結果であると考えられよう。また宴の主催者たる長屋王がその作品に「別離の悲愁慰勞馳思」と「主客渾然主客同心」を詠みこんで、敢えて「華夷思想の発露」について言及しなかったのも同じ理由によるのではないだろうか。当該詩群の作品は言語風俗を異にする新羅と日本の文人が漢詩文を通じて文雅の交流を行い、温かい心のやりとりをしたことを示唆している反面、当時の政治外交上の対外観念にとらわれていたことも示している。その中にあって長屋王詩苑に集った渡倭系詩人は日羅関係の安定と和平に努めたであろうことが想像される。宴席において詠まれた詩群からは渡倭系文人らが帰国する新羅使を尊重する配慮をもってもてなし、別れを惜しみ、彼らを慰労しようとした人間的な心の営みを知ることができるのである。